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「恋が聴こえる」


    あらすじ
    高校二年生の朝倉真帆は、通学バスでトラブルに遭い、耳の聞こえない少年・神崎湊に助けられる。スマホで文字を通して交流を始めた二人は、互いの知らない世界を知りながら少しずつ心を通わせていく。将来への迷いや受験への不安を支え合い、真帆は歯科医師、湊は歯科技工士という夢を見つけ、ともに同じ大学を目指すことを約束する。障害という壁や周囲の偏見を乗り越え、それぞれの未来へ歩み出す二人。音では伝わらない想いを、文字やまなざし、そして心で育んでいく、優しくまっすぐな青春ラブストーリー。違いを受け入れ、互いに支え合うことで見つけた本当の「恋」と「夢」を、二人で静かに聴いていく。


    この満員バスの通学にも、だいぶ慣れた。
    ――と、真帆は思った。
    いや、正確には、そう自分に言い聞かせていた。
    真帆が通う高校は、なかなかに中途半端な場所にある。最寄り駅から歩けば三十分以上。自転車で行けない距離ではないけれど、坂道も多く、雨の日は最悪だ。
    結局、一番現実的なのはバスだった。
    ただし、そのバスが問題だった。
    朝の通学時間帯は、毎日ぎゅうぎゅう詰めになる。揺れる。押される。知らない人と肩も腕も鞄もぶつかる。雨の日には濡れた傘の匂いと湿気が車内にこもり、朝から気分は最底辺まで沈む。
    それでも、行かないわけにはいかない。
    高校生とは、意外とサバイバルなのだ。
    真帆は吊り革を握り直し、肩からずり落ちそうになる鞄を抱えた。
    今日もバスは満員だった。
    制服の生徒、スーツ姿の会社員、買い物袋を持った年配の女性。人と人の隙間なんて、ほとんどない。バスがブレーキを踏むたび、身体が前に押し出される。
    そのたびに、背中に何かが触れた。
    最初は、気のせいだと思った。
    満員だから。
    揺れているから。
    誰かの鞄かもしれないし、腕が当たっているだけかもしれない。
    そう思おうとした。
    けれど、最近ずっと同じだった。
    同じ時間。
    同じあたり。
    背後から、嫌な感じがする。
    ぞわりと、肌の奥が冷えるような感覚。
    真帆は身体を少し前にずらそうとした。けれど、目の前にも人がいて、それ以上動けない。
    また、触れた。
    今度は、偶然ではなかった。
    どう考えても、意図的な手の動き。これは・・・痴漢ってやつだ。
    真帆の喉がきゅっと詰まった。
    声が出ない。
    振り返ればいい。
    睨めばいい。
    やめてください、と言えばいい。
    頭では分かっているのに、身体が固まって動かない。
    もし勘違いだったら。
    もし逆ギレされたら。
    もし周りが何もしてくれなかったら。
    そんな考えが一瞬で頭の中を駆け巡る。
    真帆はうつむき、唇を噛んだ。
    怖い。
    気持ち悪い。
    逃げたい。
    けれど、逃げ場がない。
    その時だった。
    目の前に、すっとスマホの画面が差し出された。
    白い画面に、黒い文字が並んでいる。
    『後ろの人に触られていますか? 困っていたら左を向いてください』
    真帆は息を呑んだ。
    恐る恐る、左を向く。
    そこには、同い年くらいの男子がいた。
    濃い色のブレザー。知らない学校の制服。すっきりした横顔に、少し襟足が長めの髪。満員の車内で、それでも不思議なほど落ち着いて見えた。
    彼は心配そうに真帆を視線を送った。
    真帆は何も言えなかった。
    ただ、涙がこぼれそうになるのをこらえて、唇をさらに強く噛んだ。
    その瞬間、バスが信号で止まって男子学生が動いた。
    迷いのない動きだった。
    彼は真帆の後ろにいた男の手首をつかむと、ぐっと引き離した。
    「なんだ、お前! 離せ!」
    男の怒鳴り声に、車内が一斉にざわめいた。
    真帆の身体がびくりと震える。
    男子学生は何も言わず、ただ男の腕をつかんだまま、前方へ進んでいく。満員の車内を、まるで人波を切り分けるように。周囲の乗客たちも異変に気づき、少しずつ道を空けた。
    運転席の近くまで行くと、彼はスマホの画面を運転手に見せた。
    運転手は一瞬、眉をひそめた。
    「ああ……」
    それから前の扉を開け、車内マイクを入れたまま言った。
    「お客さん、降りてください。迷惑行為は困ります」
    「なんだよ、濡れ衣だろ! ふざけんな!」
    男はまだ何か怒鳴っていたが、周囲の視線に押されたのか、最後には舌打ちをしてバスを降りた。
    男は転がるように歩道へ出ると、そのまま小走りで去っていく。
    車内には、ざわめきだけが残った。
    「え、痴漢?」
    「さっきの人、前にも見たことあるかも……」
    「最低」
    誰かの小さな声が耳に入る。
    けれど真帆は、何も考えられなかった。
    あまりにも一瞬の出来事だった。
    怖かった。
    助かった。
    緊張の糸が切れたように、涙がこぼれた。
    一粒落ちると、もう涙の勢いは止まらなくなり制服のリボンに、ぽたぽたと涙の染みができる。
    「お騒がせしました。発車します」
    運転手の声とともに、バスがゆっくり動き出した。
    揺れる車内で、真帆は立っているだけで精一杯だった。
    その時、横からそっと何かが差し出された。
    白いタオル。
    見上げると、さっきの男子学生がいた。
    彼は真帆と一瞬だけ目を合わせた。
    優しい目で。けれどすぐに視線を外し、何事もなかったように窓の方を向いた。
    まるで、真帆が泣いているところを見ないようにしてくれているみたいに。
    真帆は震える手でタオルを受け取った。
    「……ありがとう」
    声にしたつもりだった。
    けれど、喉の奥でかすれて、音になったかどうか分からない。
    男子学生は何も言わなかった。
    ただ、少しだけうなずいた。
    真帆はタオルに顔をうずめた。
    柔らかい布の匂い。
    知らない男の子のタオルなのに、不思議と嫌ではなかった。
    柔らかなタオルの感触と優しい香りで恐怖に乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
    窓の外には、いつもの朝の街が流れていた。
    コンビニ。
    交差点。
    信号待ちの自転車。
    制服姿の高校生たち。
    世界は何も変わっていないみたいに動いている。
    でも真帆の中では、何かが大きく変わってしまった気がした。
    バスが次の停留所に止まる。
    男子学生が降車口へ向かった。
    真帆は顔を上げた。
    「あ……」
    呼び止めようとした。
    お礼を言わなきゃ。
    名前を聞かなきゃ。
    タオル、返さなきゃ。
    けれど、声は出なかった。
    男子学生は一度だけ振り返った。
    真帆を見て、ほんの少し笑って、そしてバスを降りていった。
    扉が閉まる。
    バスが動き出す。
    真帆は窓の外を見た。
    彼の背中は、人混みの中にすぐに紛れていく。
    手の中には、白いタオルだけが残った。
    端のほうに、小さく黒い文字が書いてある。
    MK。
    それだけだった。
    真帆はその文字を見つめた。
    胸の奥が、まだ震えていた。
    怖さのせいなのか。
    助けられた安心感なのか。
    それとも、あの一瞬だけ目が合った時の、優しいまなざしのせいなのか。
    真帆には、まだ分からなかった。

    「え、名前とか聞かなかったわけ?」
    昼休みの教室で、小林陽菜はあきれたように言った。
    机を向かい合わせにして、真帆はお弁当箱のふたを開けたまま、しょぼくれていた。朝からずっと、気持ちが落ち着かない。
    あのバスの中のことが、何度も頭の中で再生される。
    怖かった。
    気持ち悪かった。
    でも、助けてもらえて。
    そして、自分はちゃんとお礼も言えなかった。
    「うん……もう、いっぱいいっぱいだったんだよ。」
    真帆が小さく答えると、陽菜は購買で買った焼きそばパンにかじりつきながら、深くうなずいた。
    「あーね。それは分かる。痴漢はマジで最悪。朝からテンションだだ下がる。」
    「ほんとに……」
    「でもさ。」
    陽菜はそこで、にやりと笑った。
    「そのシチュは少女漫画なら一話で恋が始まるやつじゃない?」
    「始まらないよ!」
    真帆は思わず声を上げた。
    近くの席のクラスメイトがちらりとこちらを見る。真帆は慌てて声を小さくした。
    「そんな場合じゃなかったし……。」
    「まあ、それはそう。でも、また同じバスに乗れば会えるかもしれないじゃん。借りたタオルを返すきっかけもあるし。」
    「うん……」
    真帆は膝の上に置いた白いタオルを見つめた。
    朝、あの男子学生が差し出してくれたタオル。きちんと洗って返したいと思って、昼休みに入る前、そっとビニール袋に入れておいた。
    端のほうに、黒いマジックで小さく文字が書いてあるMKの文字。
    名前なのか、イニシャルなのかも分からない。
    「MKさん……」
    真帆がぽつりとつぶやくと、陽菜が食いついた。
    「え、なにそれ。イニシャル? ミステリアス男子じゃん。」
    「ミステリアスっていうか、情報がなさすぎる。」
    「で、イケメンなわけ?」
    陽菜は目を輝かせた。
    真帆は箸を持ったまま、遠くを見つめて少し考える。
    満員のバス。
    差し出されたスマホ。
    心配そうにのぞき込む目。
    そして、何も言わずにタオルをくれた時の、あの優しいまなざし。
    「うん……たぶん。」
    「たぶん?」
    「いや、かなり。イケメンの部類の属性だと思う。」
    「属性って何。ゲームのキャラ紹介みたいに言わないで。」
    陽菜はけらけら笑った。
    その明るさに、真帆の胸の奥に残っていた重たいものが少しだけ軽くなる。
    陽菜はクラスの中でも目立つ存在だった。陸上部で、日焼けした肌にポニーテールがよく似合う。誰とでもすぐに話せて、笑い声はいつも太陽みたいに明るい。
    真帆とは正反対。
    だからこそ、一緒にいると少し息がしやすかった。
    「とりあえず明日、声かけなよ。」
    「できるかな……?」
    「できるかな、じゃないでしょ。お礼はちゃんと言わなきゃ。」
    陽菜は真顔になって、パンの袋をくしゃりと丸めた。
    「怖い思いしたあとだから無理しなくていいけどさ。でも、助けてくれた人にありがとうって言いたいんでしょ?」
    真帆はタオルを見つめた。
    「……うん。言いたい。」
    「じゃあ言える。真帆は真面目だから、礼儀モードに入れば強い。」
    「何それ。」
    「恋愛モードより礼儀モード。真帆っぽい。」
    陽菜が笑う。
    真帆も少しだけ笑った。
    その時、廊下側の扉から声がした。
    「真帆、教科書貸して。」
    振り向くと、相沢悠斗が教室に入ってくるところだった。
    背が高く、日に焼けた顔。制服のネクタイはいつも少しゆるい。幼稚園の頃から家が近く、親同士も知り合いで、いわゆる腐れ縁だった。
    「えー、また?」
    真帆はため息をついた。
    「何の教科書?」
    「有機」
    「なんで理系選択なのに、いつも理系科目を忘れるのよ。」
    「家に持って帰って勉強してるからに決まってんじゃん。」
    「えー、うそくさ!」
    陽菜がすかさず口を挟む。
    悠斗はむっとした顔で陽菜を見た。
    「うっせ、小林。勉強してるのは本当だからな。」
    「はいはい。じゃあ今度の小テスト楽しみにしてる。」
    「プレッシャーかけんな!」
    二人のやり取りに、真帆は苦笑しながら鞄から化学の教科書を取り出した。
    「もう面倒だから二冊持ってればいいんじゃない?」
    「それな、天才!」
    「天才じゃなくても思いつくよ。」
    真帆が教科書を差し出すと、悠斗は片手で受け取った。
    「サンキュ。返すの家でもいい?」
    「えー……まあいいけど。私、今日塾あるから、お母さんに渡しておいて。」
    「了解。じゃ、借りる。」
    悠斗は軽く手を上げると、すぐに教室を出ていった。
    その背中を見送ってから、真帆はお弁当の続きを食べようとすると、向かい側から妙な視線を感じた。
    陽菜がにやにやしている。
    「……何?」
    「相沢、絶対真帆に気があるよね。」
    「は?」
    「ていうか今どき、好きな子に教科書借りに来るとか、漫画でもあんまりないから。」
    「違う違う。悠斗は本当に忘れ物が多いだけ。」
    「ふーん?」
    「ほんとだって。注意欠陥‥的な?基本、誰かが何とかしてくれるだろって弟キャラなんだよ。」
    「言い方。」
    陽菜は笑いながら水筒のお茶を飲んだ。
    「でもさ、家に返しに来るって、けっこう自然に距離詰めてない?」
    「幼稚園からの腐れ縁だから。家も近いし、親同士も知ってるし。」
    「そうかなあ?」
    「そうです。」
    真帆はきっぱり言って、卵焼きを口に入れた。
    陽菜はまだ何か言いたそうだったけれど、それ以上は追及しなかった。ただ、少しだけ悠斗が出ていった廊下の方を見た。
    その横顔に、ほんの一瞬だけ、いつもの明るさとは違う影が落ちたのを真帆は気づかなかったけれど。
    真帆の頭の中は、別のことでいっぱいだった。
    明日、同じバスに乗ったら、あの人に会えるだろうか。
    会えたら、何て言えばいいんだろう。
    「朝はありがとうございました。」
    それだけでいい?
    それとも、
    「タオル、洗ってきました。ありがとうございました。」
    いや、まだ洗ってないから変か。
    そもそも、朝の満員バスで声をかけられるのか?
    真帆はビニール袋の中のタオルをそっと撫でた。
    MK。
    たった二文字。
    名前も知らない。
    学校も知らない。
    声も、ほとんど聞いていない。
    それなのに、あの一瞬だけ目が合った時のことを、何度も思い出してしまう。
    優しい目だった。
    見ないふりをしてくれたところまで、優しかった。
    「真帆。」
    陽菜の声で、真帆ははっと顔を上げた。
    「顔、赤い。」
    「えっ?」
    「ふふ・・・恋に落ちた?」
    「違うって!」
    真帆は慌てて否定した。
    けれど、自分でも分かっていた。
    胸の奥が、朝からずっと落ち着かない。
    怖かったから。
    助けられたから。
    お礼を言いたいから。
    理由はいくつも思いつく。
    でも、どれも少しだけ違う気がした。
    窓の外では、昼休みの校庭を男子たちが走っている。どこかで誰かが笑っている。いつも通りの学校の景色。
    その中で真帆だけが、今朝のバスの揺れの中にまだ取り残されているような気がした。
    明日、会えるだろうか。
    もう一度、あの人に。
    そう思った瞬間、真帆は慌てて箸を動かした。
    陽菜に見抜かれる前に。
    けれど陽菜は、もう全部分かっているような顔で笑っていた。

    H市立聴覚特別支援学校。
    校門をくぐると、朝の光が中庭いっぱいに広がっていた。
    昇降口では、登校してきた生徒たちが次々と手を上げる。
    「おはよう。」
    声は聞こえないけれど、笑顔と手の動きだけで、それは十分に伝わる。
    靴箱の扉が閉まる音。
    廊下を走る足音。
    体育館から聞こえるボールの弾む音。
    生活音はある。
    でも、人の話し声は少ない。
    その代わり、校舎のあちこちで手話が飛び交っていた。
    手が笑い、
    目が笑い、
    表情が笑う。
    初めて訪れた人なら、「静かな学校」だと思うかもしれない。
    けれど、この学校に通う生徒たちにとっては、ここが一番にぎやかな場所だった。
    「湊。」
    肩を軽く叩かれ、神崎湊は振り返った。
    そこには、にこりと笑う同級生の美羽が立っていた。
    幼稚部からずっと一緒の幼なじみ。
    言葉より先に、お互いの表情で何を考えているか分かってしまう相手だ。
    『おはよう。』
    湊が手を動かす。
    美羽も同じように返した。
    『おはよう。』
    昇降口で靴を履き替えながら、美羽が首をかしげる。
    『今日、何かあった?』
    湊は少し考えてから答えた。
    『痴漢捕まえた。』
    美羽の目が大きくなる。
    『え?』
    『朝のバスで。本当最悪。』
    美羽は眉をしかめた。
    『被害は女の子?』
    湊はうなずく。
    『同じ年くらいの子。泣いてた。』
    美羽は小さくため息をついた。
    『かわいそう……。』
    『制服、甲南高校だった。』
    『頭いい学校だよね。』
    『うん。』
    『真面目そうな子?だから狙われちゃったのかな?』
    湊は少し考えた。
    あの時の女の子。
    肩を震わせながら必死に涙をこらえていた。
    ありがとうと言おうとして、声にならなかった。
    『うんたぶん。おとなしい感じの子。』
    美羽は少しだけ唇を尖らせた。
    『ちゃんと学校いけたかな?』
    『たぶん。』
    『でも、しばらく怖いよね。』
    湊は黙ってうなずいた。
    二人はそのまま教室へ向かう。
    廊下では後輩たちが笑いながら手話で話している。
    先生とじゃんけんをしている生徒もいる。
    友達同士で肩を組んで笑っているグループもいる。
    にぎやかだった。
    声は少ない。
    でも、会話はどこにでもあった。
    教室へ入ると、クラスメイトが手を振る。
    『おはよう。』
    『昨日ゲームやった?』
    『今日の小テストやばい。』
    朝のホームルームまでの時間は、普通の高校と何も変わらない。
    違うのは、話す方法だけだった。
    窓際の席に座ると、湊はふと朝のことを思い出した。
    あの子。
    泣いていたな。
    大丈夫だっただろうか。
    怖かっただろうな。
    少しでも気持ちが落ち着いているといいけど。
    そんなことを考えながら、机に肘をつく。
    「神崎。」
    担任の先生が近づいてきた。
    口元をしっかり見せながら話してくれる。
    『昨日締め切りの進路希望調査、まだだったね。』
    湊は苦笑した。
    『今日、出します。』
    『そろそろ決めないとな。』
    『はい。』
    先生が去ると、机の中から進路希望調査票を取り出した。
    第一希望、第二希望、志望理由。
    まだ白紙だった。
    神崎湊。
    十七歳。
    高校二年生。
    四歳の時、おたふく風邪の後遺症による重度の感音難聴で、両耳の聴力をほとんど失った。
    最初は補聴器を嫌がって泣いてばかりいたらしい。
    兄の航も、姉の渚も、手話を覚えてくれてたくさん励ましてくれた。
    両親も一緒だった。
    家族みんなで、新しい生活を始めた。
    その頃のことは、もうぼんやりとしか覚えていない。
    でも、不思議と覚えていることもある。
    母親に抱きしめられたこと。
    兄が毎日絵本を読んでくれたこと。
    姉が泣きながら補聴器をつけてくれたこと。
    そして。
    聞こえていた頃の家族の声。
    もう思い出せない。
    父の声も。
    母の声も。
    どんな声だったのか、もう分からない。
    それでも寂しいとは思わなかった。
    今の生活は楽しい。
    友達もいる。
    先生も優しい。
    笑うことも多い。
    困ることはある。でも、不幸ではない。
    ただ。
    卒業が近づくにつれて考えてしまう。
    この学校を出たら。
    その先は、聞こえる人たちの世界だ。
    進学。
    就職。
    社会のどこへ行っても、少数派になる。
    自分には何ができるんだろう。
    聞こえないからできる事を選ぶべきなのか。
    聞こえなくても、自分がやりたい事を選ぶのか。
    その違いは、大きい。
    でも、まだ答えは見つからない。
    ふと窓の外を見る。
    校庭では、小学部の子どもたちが鬼ごっこをしていた。
    先生が笑いながら追いかける。
    子どもたちは声を出して笑う子もいれば、手話だけで笑う子もいる。
    それでも、みんな同じように楽しそうだった。
    湊は小さく笑った。
    ――明日の朝も、あのバスに乗る。
    もし、あの子にまた会ったら。
    ちゃんと笑っていられるといいな。
    そう思いながら、湊は真っ白な進路希望調査票を静かに見つめていた。

    塾の授業が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
    真帆はノートと参考書を鞄にしまいながら、小さく息をついた。今日はいつもより集中できなかった。英文も数式も、目では追っているのに頭に入ってこない。
    何度も思い出すのは、朝の満員バス。
    そして、白いタオルに書かれた二文字。
    MK。
    「……明日、会えるかな。」
    自分でつぶやいて、真帆は慌てて口を閉じ手で押さえた。
    塾の階段を下り、入口の自動ドアを出る。夜の空気は少し冷たい。
    その時、スマホが震えた。悠斗からだ。
    『終わった? 今日、教科書サンキュな。今返すわ』
    真帆が顔を上げると、少し離れた自販機の前に悠斗が立っている。
    「悠斗? どうしたの?」
    「俺も自習してた。帰ろうぜ。」
    「教科書、わざわざいいのに。」
    「ついで。」
    悠斗はそう言って、借りていた化学の教科書を差し出した。
    真帆は受け取りながら眉をひそめる。
    「ちゃんと勉強した?」
    「したって。疑いすぎだろ?」
    「日頃の行いだよ。」
    二人は並んで歩き出した。
    駅前から住宅街へ向かう道は、塾帰りの学生でまだ少しにぎわっていた。街灯の下を通るたび、悠斗の横顔が明るくなったり暗くなったりする。
    「真帆、今度の模試受けるの?」
    「うん。一応。」
    「志望校どこにすんの?」
    「関東の歯学部かな。実家から通えるところ。」
    「やっぱ、あと継ぐんだ。」
    悠斗は前を向いたまま言った。
    「おじさんも、その方が安心だろうしな。」
    「そうだね。」
    真帆は曖昧に笑った。
    父は町で三代続く歯科医院に勤務している。小さい頃から、真帆は何となく「いつか自分が継ぐんだろう」と思ってきた。
    父に強く言われたわけではない。
    けれど、言われなくても分かる何となくの周りの期待というものがある。
    「一人暮らし、してみたい気もするけどね。」
    「え、真帆が?」
    「何、その言い方?」
    「いや、できなそう。」
    「失礼すぎる。」
    真帆はむっとしたが、自分でも少しそう思っているから強くは言えなかった。
    「でも、そうなんだよね。……ちょっと怖い気もするし。」
    「怖い?」
    悠斗がこちらを見る。
    真帆は少し迷ってから、朝のことを話した。
    満員バスで、痴漢に遭ったこと。声が出なかったこと。
    知らない男子学生が助けてくれたこと。タオルを借りたこと。
    話しているうちに、思っていた恐怖を思い出し胸が苦しくなった。
    悠斗の表情がみるみる険しくなる。
    「……大丈夫だったのか?」
    「うん。助けてもらったから。」
    「犯人、逃げたの?」
    「バスから降ろされたけど、そのまま走って行っちゃった。」
    「最悪だろ。」
    悠斗の声には、はっきりと怒りがにじんでいた。
    「そういうの、ちゃんと警察とかに言った方がよかったんじゃないの?」
    「そうだね。でも、その時は何も考えられなくて。」
    「……そっか。」
    悠斗は唇を結んだ。
    しばらく二人は黙って歩いた。
    車のライトが道路を滑っていく。遠くで犬が吠える声がした。
    「おまえ、ぼーっとしてるし。」
    悠斗がぽつりと言った。
    「大学は絶対、家から通え。」
    「また失礼なこと言ってる。」
    「失礼じゃなくて心配してんの。」
    真帆は何も言えなくなった。
    悠斗はいつもこうだ。
    雑で、忘れ物ばかりで、冗談みたいなことばかり言う。でも時々、急にまっすぐ心配してくる。幼稚園の頃から知っているからこそ、その優しさをどう受け取ればいいのか分からなくなることがある。
    「真帆のおばさん、飯もうまいし。実家最高じゃん?」
    「え、そこ?」
    「そこ大事!」
    真帆は少し笑った。
    その笑いで、重たかった空気がほんの少しゆるむ。
    「悠斗は? 進路どうするの?」
    「俺は高校の理科の教員とか考えてる。」
    「先生?」
    「そんな意外そうな顔すんなよ。」
    「いや、有機の教科書忘れる人が?」
    「そこは改善予定。」
    「予定なんだ。」
    悠斗は照れ隠しのように頭をかいた。
    「まあ、理学部かな。大学行ってから別のことやりたいって思ったら、それはそれで。」
    「いいね。」
    真帆は素直に言った。
    「自分で決めてる感じがする。」
    悠斗は少し驚いたように真帆を見た。
    「真帆だって決めてんじゃん。歯学部。」
    「うん……でも。」
    真帆は足元を見た。
    「決めたっていうより、ずっとそこに道があった感じ?」
    自分で選んだのか。
    選ばされているのか。
    その違いを考えたことは、これまであまりなかった。
    でも最近、少しだけ思う。
    このまままっすぐ歩いていけば、父の医院を継ぐ未来がある。
    それはきっと悪い未来ではない。
    けれど、それは本当に自分の思い描く未来なのだろうか?
    「真帆。」
    悠斗が立ち止まった。
    「何?」
    「無理すんなよ。」
    たったそれだけだった。
    でもその言葉は、妙に胸に残った。
    「……うん。ありがとう。」
    二人はまた歩き出した。
    やがて、真帆の家へ続く角に着く。
    「じゃ、ここで。」
    「おう。明日は教科書忘れないようにする。」
    「ほんとにね。」
    「たぶん。」
    「たぶんじゃだめ。」
    二人で笑った。
    悠斗が手を振って去っていく。
    真帆はその背中を見送ってから、鞄の中に手を入れた。
    ビニール袋に包んだタオルが、指先に触れる。
    MK。
    明日、あのバスに乗れば会えるかもしれない。
    会えなかったらどうしよう。
    会えたら、何て言おう。
    怖いはずの満員バスを、明日だけは少し待ち遠しいと思っている自分がいた。
    真帆は夜空を見上げた。
    胸の奥で、小さな何かが震えていた。

    真帆は、その日のうちにタオルを洗った。
    洗濯機に入れる前、一度だけ両手で広げてみる。
    真っ白なタオルの端には、小さく黒いマジックで書かれた二文字。
    MK。
    「……名前、何ていうんだろう。」
    誰かの私物を洗うなんて初めてだった。
    お気に入りの柔軟剤を少しだけ多めに入れる。
    ふわりと優しい香りが部屋いっぱいに広がる。
    ベランダではなく、自分の部屋に干した。風で飛ばされたら嫌だったから。
    乾いたタオルを丁寧にたたみ、透明な袋に入れる。
    「明日はちゃんと、お礼を言おう。」
    そう決めたのに、その夜はなかなか眠れなかった。

    翌朝。
    相変わらずの満員バスだった。
    真帆はつり革につかまりながら、何度も停留所の方を見た。
    (来るかな……。)
    バスが停まり、数人の乗客が乗り込んでくる。
    その中に、昨日の男の子がいた。
    「あ……。」
    今日は制服ではない。
    白いパーカーに黒いリュック。
    高校生……かな。
    彼は人混みをかき分けるように前へ進み、空いたつり革につかまった。
    こちらには一度も気づかない。
    真帆の心臓だけが忙しく鳴っていた。
    (今しかない。)
    小さく息を吸う。
    「あ……あの。」
    声が思ったより小さくしか出なかった。
    「昨日はありがとうございました。」
    「タオルも……ありがとうございました。」
    彼は動かなかった。
    聞こえていないようだった。
    (声、小さすぎた……?)
    そう思っているうちに、バスは次の停留所へ着いた。
    人がどっと降りていく。
    その流れに乗って、彼も降りていった。
    「あ……。」
    結局、お礼は届かなかった。
    真帆は袋に入ったタオルを握りしめた。

    それから数日。
    真帆は毎朝タオルを鞄へ入れて家を出たけれど、彼は現れなかった。
    (もう会えないのかな。)
    そう思い始めた頃、停留所でバスが止まる。
    見慣れた横顔が乗り込んできた。
    (いた。)
    今日こそ。
    真帆は胸の前で拳を握る。
    「……よし。」
    昨日より、少しだけ大きな声。
    「あの!」
    「先日はありがとうございました!」
    「タオル、洗濯してきました!」
    それでも。
    彼は振り向かなかった。
    (え……。)
    イヤホン?
    音楽を聴いているのかな。
    真帆は少しだけ身を乗り出す。
    耳にかかる長めの髪の奥。
    その耳に、肌色の機械が見えた。
    イヤホンじゃない。
    (あれ……?)
    見たことはある。
    でも、身近につけている人はいなかった。
    (補聴器……?)
    その瞬間。
    彼が人の気配に気づき、ゆっくり振り返った。
    目が合う。
    真帆は慌てて袋を差し出した。
    「あ、あの!」
    「先日は本当にありがとうございました!」
    「これ……洗っておきました。」
    彼は少し驚いたように目を丸くした。
    それから、ふっと優しく笑った。
    深く頭を下げる。
    何も言わない。
    ただ笑顔で袋を受け取り、もう一度軽く会釈した。
    その笑顔だけで十分だった。
    真帆も思わず頭を下げる。
    胸の中につかえていたものが、すっと軽くなった。
    (渡せた……。)
    そう思った時だった。
    バスが停まり、彼は降りていく。
    真帆が何気なく窓の外を見ると停留所の名前が目に入った。
    県立H市聴覚特別支援学校前
    「……聴覚特別支援学校?」
    耳。
    補聴器。
    昨日、声をかけても振り向かなかったこと。
    最初にスマホで話しかけてくれたこと。
    何も話さなかったこと。
    すべてが一本につながる。
    (だからか……。)
    知らなかった。
    そんな学校があることも。
    そんな高校生活があることも。
    窓の外では、彼が同じ制服を着た生徒たちと合流していた。
    みんな笑っている。
    手が忙しく動く。
    表情がころころ変わる。
    声はほとんど聞こえない。
    それなのに、不思議なくらい楽しそうだった。
    (静かじゃない……。)
    真帆は思った。
    (声が少ないだけなんだ。)
    バスがゆっくりと発車する。
    遠ざかる校門。
    彼が一度だけ振り返った気がした。
    もちろん、こちらが見えていたかは分からない。
    それでも真帆は、小さく会釈した。
    届かないかもしれないけれど、でも今度は、ちゃんと伝えられた気がした。
    「ありがとう。」
    その日、真帆は初めて「聴覚特別支援学校」という言葉をスマートフォンで検索した。そして、自分の知らなかった世界への扉を、そっと開いた。

    夜、真帆はベッドの上でスマートフォンを見つめていた。
    検索欄には、さっき打ち込んだ言葉が残っている。
    聴覚特別支援学校。
    知らない世界だった。
    幼稚部から高等部まである学校。
    手話や口話、文字を使って学ぶこと。
    普通科もあること。
    部活や行事も、普通の高校と同じようにあること。
    知らなかった。
    でも、知りたいと思った。
    学校のことも。
    そこに通う人たちのことも。
    そして、彼のことも。
    真帆は机に向かい、便せんを一枚取り出した。
    何度も書き直した。言葉が固すぎる気がして、でも、軽すぎるのも違う。
    最後に残った文章は、とても真帆らしいものだった。
    「朝倉真帆といいます。
    十七歳の高校二年生です。
    先日はありがとうございました。
    本当に助かりました。
    なかなかお礼が言えなくて、すみませんでした。
    LINEならちゃんとお話できるかと思ったので。よかったら登録してください。」
    その下に、自分のLINEのQRコードを印刷して貼った。
    「……重いかな?」
    真帆は便せんを持ったまま、しばらく固まった。
    でも、他に方法が思いつかなかった。
    声は届かないかもしれない。
    でも、文字なら届く。
    そう思うと、少しだけ勇気が出た。
    翌朝。
    満員バスの中で、真帆は鞄の中の封筒を何度も確認した。
    今日、渡せるだろうか。
    停留所でバスが止まる。
    彼が乗ってきた。
    真帆の心臓が跳ねた。
    彼はいつものように前の方へ進む。
    真帆は人の流れに押されながら、少しずつ近づいた。
    降りる停留所が近づく。
    今しかない。
    真帆は震える手で彼の肩をたたき封筒を差し出した。
    彼が気配に気づいて振り返り、目が合う。
    真帆は必死にゆっくりと口を動かして封筒を指さしながら話をした。
    「これ……読んでください」
    伝わったかは分からない。
    彼は少し驚いた顔をして、それから小さくうなずき封筒を受け取った。
    バスが止まる。
    県立H市聴覚特別支援学校前。
    彼は封筒を大事そうに持ったまま、バスを降りていった。
    真帆はその背中を見送った。
    渡せた。
    今度こそ、ちゃんと。
    真帆はその日の授業が、ほとんど頭に入らなかった。
    昼休みも、放課後も、真帆は何度もスマホを確認した。
    まだ来ない。
    やっぱり迷惑だったかな?変な子だと思われたかな?
    夕方、塾へ向かう道の途中で、スマホが震えた。
    画面に表示された文字を見て、真帆は息を止めた。
    神崎湊さんがあなたを友だち追加しました。
    そのすぐあと、メッセージが届いた。
    神崎湊
    「神崎湊です。同じく十七歳、高二です」
    「この間は大変だったね」
    「元気になってよかった」
    「よろしく」
    真帆は画面を見つめた。
    神崎湊。
    MK。
    そっか。
    彼の名前。
    「湊くん……」
    声に出した瞬間、胸がふわっと温かくなった。
    真帆は何度も何度もメッセージを読み返した。
    手紙を書いてよかった。
    勇気を出してよかった。
    真帆は急いで返信を打った。
    朝倉真帆
    「登録してくれてありがとうございます」
    「ちゃんとお礼が言えてよかったです」
    「こちらこそ、よろしくお願いします」
    送信ボタンを押してから、真帆はスマホを胸に抱えた。
    数秒後。
    湊から返信が来た。
    神崎湊
    「敬語じゃなくていいよ」
    「同い年だし」
    真帆は少し笑った。
    朝倉真帆
    「じゃあ、神崎くんも敬語なしで」
    神崎湊
    「了解」
    「真帆って呼んでいい?俺は湊でいいよ」
    その文字を見た瞬間、真帆の顔が熱くなった。
    ただの名前。
    ただの文字。
    それなのに、声で呼ばれたみたいに胸が鳴った。
    朝倉真帆
    「うん」
    「私も湊くんって呼ぶね」
    神崎湊
    「うん」
    短い返事。
    でも、真帆にはそれだけで十分だった。
    声ではなく、文字で始まった会話。
    その小さな画面の中で、真帆の知らなかった世界が、ゆっくりと開いていく気がした。

    翌朝、真帆が目を覚ますと、スマートフォンの通知が一件届いていた。
    神崎湊
    『おはよう。今日もバス?』
    思わず頬がゆるむ。
    まだ朝の7時前。
    (早起きなんだ。)
    真帆は布団の中で返信を打った。
    『おはよう!今日もバスだよ。』
    数秒後。
    『俺も。混まないといいけど。無理だよな。』
    その短い文だけなのに、真帆は嬉しくなった。
    朝の支度をしながらも、何度もスマホを見てしまう。
    母に、
    「今日なんかいいことあった?」
    と聞かれ、
    「別に!」
    慌てて答えた。
    満員バス。
    今日も相変わらずぎゅうぎゅうだった。
    湊は前の方。
    真帆は少し後ろ。
    直接話すことはできない。
    でも。
    スマホが震えた。
    『今日も満員だね。』
    真帆は思わず笑う。
    『うん。暑い……。』
    『雨の日はもっと嫌。』
    『傘で服が濡れるしね。』
    『分かる。』
    『梅雨、早く終わってほしい。』
    『でも夏も暑いよ(笑)』
    『最近、春が一瞬で終わって夏が来て、気づいたら冬って感じ。』
    『それな(笑)』
    真帆は吹き出しそうになった。
    目の前には湊の背中。
    離れているのに、一番近くにいる。
    そんな不思議な朝だった。

    それから毎日、LINEは続いた。
    授業の合間。
    放課後。
    寝る前。
    会話は特別なものではない。
    『今日、英語の小テスト終わった?』
    『終わった。』
    『どうだった?』
    『だから終わった。。。撃沈(笑)』
    『あちゃ~。』
    ある日は。
    『今日の夕焼けめっちゃきれい。』
    真帆が写真を送る。
    湊から返ってきたのは、
    『ありがとう。』
    『こういう空、好き。』
    たったそれだけなのに、真帆は何度も文字を見返した。
    二人は、お互いの学校の話もするようになった。
    『真帆の学校って、一学年何人くらいいるの?』
    『ニ百人くらい。』
    『え!?』
    『そんなに!?』
    『うん。』
    『うち、高二は八人。』
    『八人!?』
    今度は真帆が驚いた。
    『幼稚園からずっと一緒の子もいるよ。』
    『家族みたいだね。』
    『そんな感じ。』
    『運動会とか文化祭もある?』
    『もちろん。』
    『文化祭なんて毎年めっちゃ盛り上がるよ。』
    『へぇ、面白そう。』
    『普通高校って、どんな感じなんだろ。』
    真帆は少し考えてから返信した。
    『人数が多すぎて、全員の名前なんて分からない(笑)』
    『それ想像できない(笑)』
    知らなかった世界。
    でも、お互いに知らない世界だった。

    ある日の夜。
    勉強机に向かっていた真帆のスマホが震えた。
    『数学やばい。』
    湊からだった。
    『今どこやってるの?』
    写真が送られてくる。
    数Ⅱの問題集。
    『ここ。』
    『全然分からない。』
    真帆は問題を見て笑った。
    『そこなら説明できるよ。』
    『真帆理系だよね?数学得意?』
    『得意かどうか分かんないけど、別に嫌いじゃないかな。』
    『それだけですごい(笑)』
    『期末やばい。』
    真帆は画面を見つめた。
    心臓が少し速くなる。
    (今なら……。)
    指が止まる。
    何度も打っては消す。
    「図書館で一緒に勉強する?」
    書いては消す。
    重いかな。
    困るかな。
    迷惑かな。
    でも。
    会いたい。
    もっと話したい。
    勇気を出して送信ボタンを押した。
    『図書館とかで、一緒に勉強する?』
    送った瞬間、
    「ああぁ……。」
    真帆は枕に顔をうずめた。
    (送っちゃった。)
    (どうしよう。)
    十分。
    いや、実際は三分も経っていない。
    でも永遠みたいに長かった。
    スマホが震える。
    『マジで!?』
    『めっちゃ助かる!!』
    『化学も教えて(笑)』
    真帆は思わず笑ってしまった。
    『いいよ(笑)』
    『土曜日どう?』
    『行く!』
    『時間決めよう!』
    トントン拍子に話が進んでいく。
    真帆はスマホを見つめたまま、小さく息を吐いた。
    (これって……。)
    勉強。
    勉強しに行くだけ。
    そう。
    勉強。
    でも。
    (図書館デート……。)
    その言葉が頭に浮かんだ瞬間、真帆は真っ赤になった。
    慌てて首を横に振る。
    「違う違う!」
    誰も聞いていない部屋で、一人つぶやく。
    それでも、胸の高鳴りは止まらなかった。
    画面には、最後に届いたメッセージ。
    『楽しみにしてる。』
    真帆はその文字を、何度も読み返した。
    文字なのに。
    声よりもずっと近くに感じた。窓の外では、梅雨の雨が静かに降っていた。
    その雨音は湊には届かない。
    でも、この画面の中の「楽しみにしてる」は、きっと同じ温度で湊にも届いている。
    真帆はスマホをそっと胸に抱きしめた。
    土曜日まで、あと三日。
    こんなに週末が待ち遠しいと思ったのは、初めてだった。

    土曜日の朝。
    真帆はクローゼットの前で固まっていた。
    「……何着よう。」
    部屋中に服を並べてみる。
    ワンピース。
    ブラウス。
    デニム。
    いつもなら迷わないのに、今日はどれもしっくりこない。
    (いや、違う。)
    今日は遊びに行くんじゃない。
    勉強。
    図書館で勉強。
    そう、自分に言い聞かせる。
    「制服でいいか。」
    結局、一番着慣れた制服を選んだ。
    鏡の前で髪を整えながら、小さくため息をつく。
    「……緊張する。」

    駅前の図書館。
    約束の十分前に着いた真帆は、入口の前で深呼吸をした。
    (まだ来てないかな。)
    そう思って周りを見渡した瞬間。
    「……え。」
    少し離れたベンチに座る男の子と目が合った。
    神崎湊だった。
    黒いシンプルなTシャツ。
    少しゆるめのデニム。
    白いスニーカー。
    長めの髪が耳を少し隠していて、柔らかな雰囲気がある。
    (私服……。)
    真帆は思わず見とれた。
    (ずるい。すごくかっこいい。)
    湊も真帆に気づき、立ち上がる。
    スマホを取り出す。
    『おはよう。』
    真帆も笑ってスマホを開く。
    『おはよう。』
    近くにいるのに、文字であいさつを交わす。
    そのやり取りが、もう二人には自然になっていた。
    湊は真帆を見て少し首をかしげる。
    『制服?』
    真帆は照れ笑いする。
    『勉強だから。』
    湊は吹き出した。
    『真面目~。てか暑くない?』
    『着慣れてるから平気。』
    『真帆らしい(笑)』
    そのやりとりだけで、真帆は少し嬉しくなった。
    図書館へ入る。
    静かな閲覧席。
    もともと私語は禁止。
    だから二人にとっては、とても都合がよかった。
    スマホを机の上に置き、ノートを開く。
    「ここ。」
    湊が数学の問題集を指差す。
    真帆は問題を見てすぐに答えた。
    『この公式を使うんじゃなくて、まず図を書こう。』
    湊は言われた通りに書いてみる。
    「あ。」
    思わず小さく声が漏れた。
    『そういうことか。』
    『うん。』
    『ここが分かると次も解けるよ。』
    数学が終わると、今度は化学。
    イオン化傾向。酸化還元。
    湊は夢中でノートを取る。
    『真帆。』
    『教えるのめっちゃ上手。』
    真帆は苦笑した。
    『そんなことないよ。』
    『先生より分かりやすい。』
    『ほめすぎ(笑)』
    『いや、本当。』
    『俺、今回の期末、上がる気しかしない。』
    『大げさ。』
    二人は顔を見合わせて笑った。
    声はなくても、
    笑うタイミングはぴったりだった。

    二時間ほど勉強したあと、ロビーで休憩することにした。
    自動販売機で飲み物を買う。
    真帆はカフェオレ。
    湊はアイスミルクティー。
    ソファに座りながら、湊がスマホを打つ。
    『図書館って最高だね。』
    『静かだから(笑)』
    真帆も笑う。
    『そうだね。』
    『普通は静かだから話せない場所なんだけど。』
    『私たちにはちょうどいい。』
    その時だった。
    「真帆!」
    聞き慣れた声がした。
    振り向くと、
    部活帰りでジャージ姿の陽菜と悠斗が立っていた。
    「何してるの?」
    「勉強?」
    陽菜が湊を見て首をかしげる。
    「あれ?」
    「誰?」
    真帆は一瞬固まった。
    「あ……えっと。」
    「神崎湊くん。この前、バスで助けてくれた人。」
    「ああ!」
    二人は同時に声を上げた。
    「その人なんだ!」
    陽菜はにっこり笑った。
    「すごいじゃん、真帆!」
    「ちゃんとお礼言えたんだ!紹介してよ!」
    「ちょ、陽菜!待って!」
    真帆は慌ててスマホを打ち湊に見せる。
    『高校の同級生。』
    『小林陽菜。』
    『と幼なじみの相沢悠斗。』
    湊は画面を見てから、二人の顔を見る。
    優しく笑って、深く会釈した。
    陽菜は元気よく笑う。
    「こんにちは!小林陽菜です!」
    悠斗も軽く頭を下げる。
    「相沢です。」
    湊はもう一度会釈して、静かに席へ戻った。

    湊が離れたあと。
    陽菜が小声で真帆に聞いた。
    「え……。神崎くん、機嫌悪かった?」
    真帆は首を横に振る。
    「違う。湊くん……耳が聞こえないの。」
    「え?」
    陽菜も悠斗も黙った。
    「だから、今みんなが話してたことも聞こえてない。」
    二人はさっきの湊を思い返した。
    何も話さず。
    でも笑顔で会釈してくれた。
    陽菜は小さくつぶやく。
    「……そうだったんだ。」
    悠斗は何も言わなかった。
    ただ、少しだけ複雑な表情で湊の後ろ姿を見つめていた。

    勉強を終え、図書館を出る。夕方の風が少しだけ涼しい。
    とんとん、と真帆の肩を湊がたたき、その手には、さっき買ったアイスミルクティーが二本。一本を真帆へ差し出した。
    『お礼。』
    『勉強教えてもらったから。』
    「ありがとう。」
    真帆は受け取って笑う。
    図書館前の小さな公園。
    ベンチに並んで座る。
    アイスミルクティーのストローをくわえながら、二人は何も話さない。
    でも、不思議と沈黙は気にならなかった。
    (こんな時間も、いいな。)
    真帆はそう思った。
    夕日がゆっくりと街をオレンジ色に染めていく。
    その光の中で、湊がスマホを開いた。
    『今日ありがとう。数学も化学も分かりやすかった。』
    『先生より上手。』
    真帆は苦笑した。
    『だからほめすぎ(笑)』
    『本当。ちょっと自信ついた。』
    真帆はその文字を見て、なんだか自分まで嬉しくなった。
    『でも頑張ったのは湊くんだよ。』
    湊は少し照れたように笑う。
    そして、画面にゆっくり文字を打ち始めた。
    『……なんか、ごめん。』
    真帆は首をかしげる。
    『何が?』
    『友達。』
    『さっき、ちょっと気まずくしちゃったかなって。』
    真帆はすぐに首を横に振った。
    『そんなことない。』
    『陽菜も悠斗も悪気はないから。』
    湊は少しだけ安心したように笑った。
    しばらくして、また文字を打つ。
    『俺さ。』
    『四歳の時、おたふく風邪で耳が聞こえなくなった。』
    真帆は黙って画面を見つめる。
    『小さかったから、聞こえてた頃のことは少ししか覚えてない。』
    『家族の声も、もう思い出せない。』
    その一文だけで、胸が締めつけられた。
    けれど湊の表情は穏やかだった。
    悲しそうではない。受け入れている人の顔だった。
    『だから今の生活が普通なんだ。』
    『困ることはあるけど、不幸じゃない。』
    『友達もいるし、学校も好き。』
    『でも。』
    文字を打つ指が止まる。
    少し考えてから続けた。
    『卒業したら社会に出る。』
    『聞こえる人たちの中に入る。』
    『それが最近ちょっと怖い。』
    真帆は画面から顔を上げた。
    湊は夕焼けを見ていた。
    『仕事も。』
    『聞こえないからできる仕事を探すのか。』
    『聞こえなくても、自分がやりたい仕事を探すのか。』
    『まだ分からない。』
    真帆は少し考えてから、自分のスマートフォンを打った。
    『私も似たようなものだよ。』
    湊が見る。
    『うちは歯医者なの。』
    『小さい頃から、歯医者になるのかな?って思って育った。』
    『だから進路は一応歯学部に行くつもり。』
    『でもね。』
    『本当に自分が決めた夢なのかって聞かれると、自信ない。』
    湊は驚いたように真帆を見た。
    『真帆、勉強できるのに?』
    『できるのと、やりたいのは別だから。』
    『悪くない仕事だとは思う。』
    『でも、自分で選んだって言えるのかなって。』
    二人は顔を見合わせた。
    似ている。
    全然違う人生なのに。
    将来への迷いだけは、同じだった。
    湊が笑う。
    『なんか安心した。』
    『俺だけじゃなかった。』
    真帆も笑った。
    『みんなそうなのかもね。』
    湊は少し嬉しそうな顔をして、また文字を打つ。
    『俺、兄ちゃんと姉ちゃんがいるんだ。』
    『兄ちゃんは十二歳上。』
    『今、うちの学校で先生してる。』
    『聴覚特別支援学校の先生?』
    『うん。』
    『俺が聞こえなくなってから、教育の仕事をしたいって決めたらしい。』
    『姉ちゃんは看護師。』
    『耳のことをもっと知りたいって。看護師になった。』
    『二人とも俺をすごくかわいがってくれる。』
    真帆は自然と笑顔になった。
    『素敵な家族だね。』
    『うん。』
    『だからさ。』
    『俺もちゃんと自立したい。』
    『心配かけたくない。』
    『何かできる人になりたい。』
    その言葉には、強い決意が込められていた。
    真帆はしばらく考えたあと、小さく笑った。
    『じゃあ。』
    『一緒に頑張ろう。』
    湊が顔を上げる。
    『湊くんの選択肢が増えるように。』
    『勉強なら、私も手伝える。』
    『だから、一緒に頑張ろう。』
    湊はしばらく画面を見つめていた。
    やがて、ふっと笑った。
    今までで一番優しい笑顔だった。
    『ありがとう。』
    『じゃあ。』
    『これからも先生よろしく。』
    真帆は吹き出した。
    『先生じゃないよ。』
    『同級生(笑)』
    『いやいや。』
    『真帆先生。』
    『それ却下。』
    二人は同時に笑った。
    公園に子どもたちの笑い声が響く。
    夕日が少しずつ沈み始める。
    帰る時間だった。
    駅へ向かって歩きながら、真帆は思う。
    最初は、助けてくれた人だった。それが、LINEの友達になって。
    一緒に勉強するようになって。今日、初めて将来の話をした。
    少しずつ。
    本当に少しずつ。
    神崎湊という人を知っていく。
    そして知れば知るほど、もっと知りたくなる。
    そんな気持ちが胸の中で静かに大きくなっていた。
    その隣では湊も、スマートフォンをポケットにしまいながら思っていた。
    聞こえない自分に、こんなふうに自然に接してくれる人がいる。
    「頑張ろう」と言ってくれる人がいる。
    そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
    二人はまだ気づいていない。
    この日交わした「一緒に頑張ろう」という約束が、これから先、それぞれの未来を大きく変えていくことを。
    二人の「図書館の約束」は、この日だけでは終わらなかった。

    図書館での勉強会から数日が過ぎ、湊とのLINEは相変わらず毎日続いている。
    「おはよう。」
    「おやすみ。」
    そんな短いやり取りだけの日もある。
    それでも真帆にとっては、その通知が届くだけで一日が少し明るくなるような気がしていた。
    昼休み。
    真帆と陽菜は、いつものように机を向かい合わせてお弁当を食べていた。
    陽菜は箸を止めると、突然言った。
    「ねえ。神崎くん。」
    真帆の手が止まる。
    「……うん?」
    「めっちゃイケメンだったね。」
    思わず笑ってしまう。
    「うん。かっこいいよね。」
    その一言を口にした瞬間、自分で少し照れた。
    陽菜はにやりと笑う。
    「認めた。」
    「え?」
    「今、かっこいいって言った。」
    「いや、それは客観的に見てってことで……。」
    「はいはい。」
    陽菜は楽しそうに笑う。
    少しして、ふと真顔になった。
    「耳、悪いんだね。」
    真帆は静かにうなずいた。
    「四歳の時、おたふく風邪で聞こえなくなったんだって。」
    「そうなんだ……。」
    陽菜は少しだけ黙った。
    「大変だったろうね。」
    「うん。」
    また沈黙。
    しばらくして、陽菜は真帆をじっと見た。
    「真帆。」
    「ん?」
    「どうするの?」
    「何が?」
    「神崎くん。」
    真帆は首をかしげる。
    「どうするって?」
    陽菜はため息をついた。
    「好きなんでしょ?」
    「え?」
    真帆は目を丸くした。
    好き。
    そんなふうに考えたことはなかった。
    いや。
    考えないようにしていたのかもしれない。
    湊とLINEをするのは楽しい。
    会えると嬉しい。
    図書館へ行く日は朝から落ち着かない。
    笑顔を見ると安心する。
    でも、それが恋なのかと聞かれると。
    「……分かんない。」
    真帆は正直に答えた。
    「一緒にいると楽しい。もっと話したいって思う。でも……。」
    「恋って言われると、まだよく分かんない。」
    陽菜は優しく笑った。
    「真帆らしい。」
    その時だった。
    「真帆。」
    教室の入り口から悠斗が顔を出した。
    「今日は何?」
    真帆が笑う。
    「何の教科書?」
    「違う。」
    悠斗は真帆の机の前まで来る。
    少しだけ真面目な顔をしていた。
    「この前の神崎ってやつ。」
    「うん?」
    「やめとけ。」
    一瞬、空気が止まる。
    「……は?」
    真帆は思わず聞き返した。
    悠斗は真帆をまっすぐ見た。
    「耳に障害あるんだろ?これから絶対苦労する。わざわざ大変な方に行く必要ない。」
    真帆は立ち上がった。
    「何言ってるの?失礼だよ。神崎くんだって好きで障害があるわけじゃない。」
    「そんなこと分かってる。」
    悠斗は少し声を荒げた。
    「悪いやつじゃないのも分かってる。でも現実は現実だろ?お前、そんな器用じゃない。絶対苦労する。」
    真帆は言葉を失った。
    頭にきた。でも、それ以上に悲しかった。
    「悠斗……。」
    「心配してるだけ。」
    そう言って悠斗は目を伏せた。
    その時。
    陽菜が静かに口を開いた。
    「相沢はさ。」
    悠斗が陽菜の方を振り向く。
    「真帆が苦しむ恋を見たくないんだよね。」
    悠斗はうつむき何も言わない。
    「でもさ。」
    陽菜はまっすぐ悠斗を見た。
    「苦しまない恋って、あるのかな?」
    あたりが静まり返る。
    「相手に障害があるからじゃなくても。遠距離だって。受験だって。家族のことだって。きっと恋って、苦しいこといっぱいあるよ。」
    悠斗はしばらく黙っていた。
    そして顔をそらした。
    「……とにかく。」
    「俺はそう思う。」
    それだけ言い残して教室を出ていった。
    真帆は立ち尽くし何も言えなかった。
    陽菜がぽん、と真帆の肩を叩く。
    「ごめん。私、恋とか言っちゃった。」
    真帆はゆっくり首を横に振る。
    「ううん。私も分かんなくなっちゃった。」

    その頃。
    聴覚特別支援学校。
    窓際の席で、湊はぼんやり校庭を眺めていた。
    図書館で会った真帆の友達。
    最初は笑っていた。
    でも途中から、少し空気が変わった気がした。
    もちろん会話は聞こえない。
    けれど表情だけで、何となく分かった。
    (俺のこと……話してたんだよな。)
    「湊。」
    肩を軽く叩かれる。
    振り向くと美羽だった。
    『どうした?』
    『難しい顔。』
    湊は苦笑する。
    『俺だって考え事くらいある。』
    美羽も笑った。
    『珍しい。』
    少し間があって、湊が手を動かした。
    『美羽。』
    『健聴者の友達っている?』
    美羽は少し考えた。
    『親戚くらい。』
    『近所の子もいるけど学校違うし。』
    『あんまり遊ばなくなったかな。』
    『そっか。』
    湊は窓の外を見る。
    この学校は安心できる。
    先生も。
    友達も。
    みんな同じ世界を知っている。
    でも卒業したら。
    聞こえる人たちの中へ行く。
    (俺……。)
    (ちゃんとやっていけるのかな。)
    そして。
    (真帆とも。)
    (普通に友達でいていいのかな。)
    そんなことを考えている自分に、少し驚いた。

    放課後。
    真帆のスマートフォンが震えた。
    神崎湊。
    『今日も勉強お疲れ。』
    『おやすみ。』
    いつもの短いメッセージ。
    真帆はしばらく画面を見つめていた。
    悠斗の言葉が頭をよぎる。
    「苦労する。」
    本当にそうなんだろうか。
    そうかもしれない。
    でも。
    今日一日考えても、答えは変わらなかった。
    真帆は静かに返信を打つ。
    『おやすみ。』
    『また今度、一緒に勉強しようね。』
    送信ボタンを押す。
    数秒後。
    湊から返事が届く。
    『うん。』
    『楽しみにしてる。』
    その一言を見た瞬間。
    真帆は小さく笑った。
    苦労するかどうかなんて、まだ分からない。
    でも一つだけ分かることがある。
    明日も、この人と話したい。
    それだけは、誰にも否定できなかった。

    図書館での勉強会は、いつの間にか二人の習慣になっていた。
    土曜日になると駅前の図書館で待ち合わせをし、午前中は勉強。
    昼は近くのベンチでコンビニのおにぎりを食べ、午後も少しだけ勉強して帰る。
    湊の数学は目に見えて伸びた。
    「今回、自己最高点だった!」
    LINEで送られてきたテストを見て、真帆まで嬉しくなる。
    「すごい! 努力した成果だね!」
    「先生がいいから。」
    「先生じゃありません(笑)」
    そんなやり取りをしているうちに、真帆自身も教えることで理解が深まり、以前より成績が上がっていた。
    「これ、相乗効果ってやつだね。」
    「じゃあ、一生勉強会やる?」
    「それはちょっと(笑)」
    二人は顔を見合わせて笑った。
    その日の帰り。
    図書館のロビーを歩いていると、大きなポスターが目に入った。
    H市 七夕まつり開催
    色鮮やかな吹き流しと、大きく描かれた花火。
    「もうそんな時期なんだ。」
    真帆がLINEを打つ。
    湊もポスターを見上げながら笑った。
    『駅前、毎年すごく混むよね。』
    『うん。最近行ってないな。』
    真帆はぽつりと打った。
    小さい頃は毎年家族で行っていた。
    綿あめを買って。金魚すくいをして。夜になれば海辺で花火を見る。
    でも中高校生になってからは、塾や模試で忙しく、いつの間にか行かなくなっていた。
    湊は少し考えてからスマホを打ち始めた。
    送信。
    真帆のスマホが震える。
    『七夕、一緒に行かない?』
    真帆は画面を見つめたまま固まった。
    『え?』
    『いつも勉強見てもらってるお礼。』
    『お祭りで何かごちそうする。』
    心臓が一気に速くなる。
    (え……。)
    (これって。)
    (デート……?)
    頭の中が真っ白になる。
    慌てて返信を打つ。
    『いいの?』
    『もちろん。』
    『土曜日の夕方にしよう。』
    『夜は花火もあるみたい。』
    少し間が空いて、もう一件届く。
    『さすがに制服じゃない方がいいんじゃない?(笑)』
    ニヤリと湊は真帆の顔をのぞいていたずらっぽく笑った。
    真帆は思わず吹き出した。
    『確かに!』
    制服じゃない方が……。
    家に帰ってからも、その一文が何度も真帆の頭の中を回っていた。

    土曜日。
    朝から真帆は自分の部屋で鏡とにらめっこをしていた。
    ベッドの上には服が山になっている。
    ブラウス。
    ワンピース。
    スカート。
    Tシャツ。
    (何着ればいいの……。)
    勉強の日なら制服でよかった。
    でも今日は違う。
    お祭り。
    しかも湊と二人。
    「うーん……。」
    クローゼットの前で腕を組んでいると、母が部屋をのぞいた。
    「あら?珍しい。服で悩んでるの?」
    真帆はびくっとする。
    「いや、その……。友達とお祭り。」
    母はにやっと笑った。
    「友達、ねぇ。じゃあ、浴衣着る?」
    「え?」
    「せっかくあるのにもったいないじゃない。」
    「でも……。」
    「気合入りすぎじゃない?」
    「そんなことないわよ。」
    母はもう押し入れから浴衣を出していた。
    淡い水色に、小さな朝顔が咲く浴衣。
    「これ似合うと思う。」
    「あ、お母さん!」
    気づけば髪までまとめられていた。
    「うん!かわいい!」
    「やっぱり女の子は浴衣よ。」
    真帆は鏡を見る。
    いつもの制服姿とは全然違う。
    (なんか……。)
    (別人みたい。)
    「お母さん、ありがとう。」
    少し照れながら家を出た。

    待ち合わせは駅前。
    改札を抜けた瞬間。
    真帆はすぐに湊を見つけた。
    (いた。)
    背が高いからすぐにわかる。
    シンプルな白いシャツに黒いパンツと今日も飾らない服装なのに、すごく目立つ。
    (やっぱり……。)
    (かっこいい。)
    その時だった。
    高校生くらいの女の子が二人、湊に近づく。
    楽しそうに何か話しかけている。
    (え……。)
    (ナンパ?)
    真帆は少し離れた場所で立ち止まった。胸がざわつく。
    湊は困ったように笑いながらスマートフォンを取り出した。
    画面を二人へ見せる。
    そこには大きな文字。
    「耳が聞こえません。」
    女の子たちは一瞬困った顔をして、
    「あ、ごめんなさい。」
    と頭を下げ、その場を離れていった。
    真帆はその様子を見つめていた。
    (そうやって……。)
    (初めて会う人には伝えるんだ。)
    なんだか胸が少しだけ痛んだ。
    障害があることを、自分から説明しなければならないなんて。
    なんて酷なんだろう。
    それは湊にとって当たり前の日常なのだ。
    真帆がそんなことを考えていると、湊がこちらに気づいた。
    湊は一瞬目を見開き、それから急いで近づいてきた。
    スマホが震える。
    『誰か分からなかった。』
    真帆は首をかしげる。
    続けてもう一件。
    『浴衣。』
    少し間が空く。
    『すごく似合う。』
    真帆は思わず立ち止まった。
    胸がどくんと鳴る。
    顔が熱い。
    何て返せばいいか分からない。
    湊は照れくさそうに笑っている。
    真帆も少し笑った。
    『ありがとう。』
    それだけ打つのが精一杯だった。

    駅前には七夕飾りが風に揺れている。
    色とりどりの短冊が、夏の風にさらさらと音を立てた。
    二人は並んで歩き始める。
    屋台の明かり。
    子どもたちの笑い声。
    夕暮れの街は、少しずつ夏祭りの色に染まり始めていた。
    屋台から漂う甘いりんご飴の香り。
    焼きそばやたこ焼きの湯気。
    夏祭り独特のにぎやかな空気に、真帆は自然と笑顔になっていた。
    湊はそんな真帆を見ながら、スマートフォンを取り出す。
    『何食べたい?』
    真帆は少し考えて笑った。
    『全部?』
    『それは破産する。』
    『じゃあ、まずはたこ焼き!』
    『了解。』
    二人は屋台を回りながら、たこ焼きを半分こし、りんご飴をかじり、かき氷で頭を押さえて笑った。
    一緒にいるだけで楽しい。
    特別なことをしているわけではない。
    時間があっという間に過ぎていく。

    空が少しずつ藍色に染まり始め祭りの人たちは、海辺の方へ歩き始めた。
    『だんだん花火の時間だね。』
    真帆がLINEを打つ。
    湊はうなずき、人の流れについて歩き始める。
    海岸へ近づくにつれ、人はどんどん増えていく。
    肩と肩がぶつかる。前にも後ろにも人。真帆は人波に押され、小さくよろめいた。
    その瞬間。
    ふわり、と肩を抱き寄せられた。
    湊は人の流れから守るように、真帆を自分の方へ引き寄せる。
    真帆の心臓が一気に跳ね上がる。
    (ち、近い……。)
    顔が熱くなる。
    でも、人混みの中では何も言えなかった。
    (……こういう時。)
    (沈黙でも気まずくないのって、ちょっとありがたい。)
    そんなことを思ってしまい、自分で少し笑った。
    ようやく海辺へ着く。
    二人は少し人込みから離れた場所に腰を下ろした。
    湊が買ってきた飲み物を差し出す。
    「ありがとう。」
    真帆は口元だけ動かして笑う。
    二人はストローをくわえたまま、夜空を見上げた。
    「まだかな。」
    真帆がLINEを打つ。
    『まだだね。』
    『氷、溶けちゃう(笑)』
    『ぬるくなる前に始まってほしい。』
    その時スピーカーから大きなアナウンスが聞こえた。
    「おまたせいたしました。これから花火の打ち上げを開始します。」
    ヒュー……
    真帆の耳に、花火が打ち上がる音が届いた。
    夜空へ一筋の光が駆け上がる。
    「湊くん!」
    真帆は慌てて湊の袖を引いた。
    そして夜空を指差す。
    ドーン!
    大輪の花火が夜空いっぱいに咲いた。
    赤。
    青。
    金色。
    次々に咲く大きな花。
    湊も顔を上げる。
    目を輝かせながら、夜空を見つめた。
    『きれい。』
    真帆は笑う。
    『すごい音だったよ。』
    湊は少し考えてから文字を打つ。
    『ありがとう。』
    『花火、始まったの分からなかった。』
    真帆はその一文を見つめた。
    そうか。
    これが。
    悠斗の言っていた「大変」ということなのかな。
    アナウンスの音。花火が始まったこと。
    みんなが歓声を上げたこと。
    その瞬間を、湊は知ることができなかった。
    でも。
    湊は花火を見て笑っている。
    誰よりもうれしそうに。
    その横顔を見ながら真帆は思った。
    (違う。)
    (私は。)
    (この人と一緒にいたい。)
    聞こえるとか。
    聞こえないとか。
    そんなことじゃない。
    困ることはきっとある。
    悩むこともある。
    それでも。
    私は、この人の笑顔をもっと見たい。この人と笑顔でいたい。
    その時だった。
    ふと、手に持ったコップに目が止まる。
    氷が溶けた飲み物の水面が、小さく震えていた。
    花火が上がるたびに、その振動で細かな波紋が広がっている。
    真帆は目を見開いた。
    「湊くん!」
    真帆が袖を引く湊が振り向く。
    真帆はコップを指差した。
    湊がのぞき込む。
    コップの水面に広がる波紋。
    真帆は満面の笑みで口を動かした。
    「ほら。」
    「花火の音、聞こえたね。」
    湊は一瞬、息をのんだ。
    それからもう一度コップを見る。
    そして夜空を見る。
    また花火が上がる。
    水面が震え波紋が広がる。
    湊の目が少し潤んだ。
    ゆっくりと真帆を見る。
    その笑顔があまりにも優しくて、真帆まで胸がいっぱいになった。
    湊はスマートフォンを取り出しかけて、途中で止めた。
    そして少しだけ前へ真帆との距離を縮め、真帆の耳に口元を寄せた。
    「……ま・ほ。」
    聞き取りにくい、小さな声。
    真帆は驚いて顔を上げた。
    湊は少し照れたように笑う。
    そして。
    ゆっくりと、言葉を続けた。
    「……す・き。」
    真帆の時間が止まった。
    耳には花火の大きな音が響いている。
    でも、その一言だけは、不思議なくらいはっきり聞こえた。
    言葉が出ない。
    胸が苦しい。
    うれしくて。
    恥ずかしくて。
    涙が出そうで。
    ただ湊を見つめることしかできなかった。
    湊も、それ以上は何も言わなかった。
    ただ少し照れくさそうに笑っていた。
    夜空には次々と大輪の花が咲く。
    色鮮やかな光が二人を照らしている。
    湊は空を見上げながら、スマホに文字をうった。
    『目が見えて……良かった。』
    真帆はその言葉に、静かに湊を見た。
    『何で急に?』
    そう返信すると、湊は夜空ではなく真帆を見つめて微笑んだ。
    『花火は見られる。』
    少し照れて、続ける。
    『……浴衣の真帆も見られる。』
    真帆の頬が一気に赤く染まる。
    うつむいて笑うしかなかった。
    花火は夜空いっぱいに咲き続ける。
    音は届かなくても。
    光は届く。
    振動も届く。
    そして。
    二人の想いも、確かにお互いの心へ届いていた。

    夏休みに入ると、真帆と湊の生活は少しだけ変わった。
    学校がない分、図書館での勉強会は土曜日だけではなく平日にも開かれるようになった。
    午前中は勉強。午後は近くのカフェで休憩したり、公園を散歩したり。
    勉強会だったはずなのに、いつの間にか少しだけデートのような時間も増えていた。
    ある日の帰り道。
    公園のベンチでアイスコーヒーを飲みながら、真帆がスマートフォンを打った。
    『今度、オープンキャンパスに行こうと思うんだ。』
    湊が首をかしげる。
    『オープンキャンパス?』
    『うん。』
    『大学を見学できる日。』
    『学校の説明を聞いたり、授業を体験したり、在学生の話を聞いたりできるの。』
    『パンフレットだけじゃ分からないことっていっぱいあるから。』
    『大学の雰囲気とか、最寄り駅とか、街の感じとかも分かるし。』
    湊は「へえ」と感心したようにうなずく。
    『歯学部?』
    『うん。』
    『関東の大学を何校か見てみようと思ってる。』
    『実際に行ってみたら、自分に合う大学が見つかるかもしれないし。』
    湊はしばらく考えてから、ゆっくり文字を打った。
    『俺も行っていい?』
    真帆は驚いて顔を上げた。
    『え?』
    『歯学部じゃないけど。』
    『進学するか就職するかもまだ決めてないし。』
    『そもそも高校を卒業したら、どんな学校や仕事があるのかも、よく分からない。』
    その言葉に真帆は静かにうなずいた。
    『そうだね。』
    『見てみるだけでもいいかも。』
    『知らないまま選ぶより、ずっといい。』
    二人はその場でスマートフォンを開き、オープンキャンパスの申し込みを済ませた。
    画面には、
    T大学 歯学部 オープンキャンパス
    受付完了。
    その文字を見て、真帆の胸は少し高鳴った。

    当日。
    朝から容赦なく太陽が照りつけていた。
    駅を降りた瞬間、むっとした熱気が二人を包む。
    『暑いね……。』
    真帆が汗をぬぐう。
    『早く建物に入りたい(笑)』
    湊も笑ってうなずいた。
    大学までは駅から徒歩数分。
    キャンパスへ近づくにつれ、同じようにパンフレットを持った高校生や保護者の姿が増えていく。
    「中学生くらいの子もいるね。」
    真帆が周りを見渡す。
    『もう将来考えてるんだ。』
    『すごいな。』
    湊も少し驚いたようだった。
    広い正門をくぐると目の前に広がるキャンパス。
    何棟も並ぶ校舎、緑の多い中庭、白衣姿で歩く学生たち。
    二人は同時に立ち止まった。
    『大学って……。』
    『すごい。』
    真帆は思わずつぶやいた。
    高校とはまるで違う。
    受付を済ませると、分厚い資料と大学案内を受け取る。
    説明会は講堂で行われた。
    前方のスクリーンには大学紹介の映像が流れ、教員が教育内容について説明する。
    湊は話し声を聞き取ることはできない。
    けれど、配布されたレジュメを真帆と一緒に見ながら、必要なところを教えてもらっていた。
    『歯学部って六年間なんだね。』
    『長いね。』
    『うん。』
    『医療系だからね。』
    『でもあっという間なんだろうな。』
    説明のあとは学生によるキャンパスツアーだった。
    研究室。
    実習室。
    附属病院。
    どこも活気にあふれている。
    真帆は目を輝かせながら歩いていた。
    『この大学、お父さんの母校なんだ。』
    『そうなんだ。』
    『見てみると良いって言われて。』
    『確かに実際に来ると全然違うね。』
    『大学生ってみんな大人に見える。』
    湊が笑う。
    『だってみんな成人だもん(笑)』
    『あ、そっか。』
    真帆も笑った。

    午後からは在学生による座談会だった。
    数人の学生が、自分の高校時代や大学生活について話をしてくれる。
    その中で、一人の女子学生の話が真帆の心に深く残った。
    「私は名古屋出身です。父も歯科医師で、祖父の代から続く歯科医院で仕事をしています。だから高校までは、歯医者になるのが当たり前だと思っていました。」
    真帆は思わず姿勢を正した。自分と少し似ている。
    「でも実際に入学してみると、歯学部は診療だけではありませんでした。基礎研究もあります。教育もあります。海外留学のチャンスもありますし最近ではAIやデジタル歯科、3Dプリンターなど新しい技術との融合も進んでいます。」
    「私は歯学部で歯科医師になってからも、自分でいくらでも可能性を広げられる世界なんだと知りました。」
    真帆は夢中になって話を聞いていた。
    クリニックで働く父しか知らなかった。
    歯科医師という仕事は、もっと広い世界につながっている。
    研究。
    教育。
    世界。
    新しい技術。
    その一つひとつが、真帆の胸を高鳴らせた。
    説明会が終わり、講堂を出る。
    湊がスマートフォンを見せた。
    『来てよかった?』
    真帆は満面の笑みでうなずく。
    『うん。』
    『来て本当によかった。』
    『歯医者になるしかない、って思ってた。』
    『でも今日来て、歯学部に行けば、自分の未来はもっと広がるんだって思えた。』
    『入ってから見つけられる夢もあるんだね。』
    湊はその文字を読んで、優しく笑った。
    『真帆が楽しそうでよかった。』
    その一言が、真帆は少し照れくさかった。
    二人はパンフレットを片手にキャンパスを歩く。
    まだ見学していない建物がある。
    校舎の案内板を見ていると、真帆が一つの文字を見つけた。
    口腔保健工学科
    「……工学?」
    真帆は首をかしげる。
    その先には、ガラス張りの実習室が見えた。
    中では白衣姿の学生たちが、小さな歯の模型に向かって黙々と作業をしている。
    「あ、歯科技工士科だ。」
    真帆は思わず足を止めた。
    「湊くん。ちょっと見てみよう。」
    「口腔保健工学科……?」
    真帆は案内板を指さして湊の方を向いた。
    『銀歯とか入れ歯とか、歯医者さんが患者さんに入れる詰め物や被せ物を作る人たち。』
    湊は初めて聞く職業の名前に目を丸くした。
    『歯医者さんとは違うんだ。』
    『うん。歯科医師とチームになって治療を支える専門職なんだよ。』
    二人はガラス越しに実習室をのぞき込んだ。
    石こう模型。
    歯の模型。
    パソコンの画面には立体的な歯の設計図が映し出されている。
    一人ひとりがそれぞれに驚くほど集中していた。
    「なんだか図書館みたい。」
    真帆が笑う。湊も思わずうなずく。
    その時だった。
    真帆が小さく湊の腕をつかんだ。
    「湊くん。見て。右奥。」
    湊が視線を向ける。
    白衣姿で模型を削っている男子学生の耳に、見覚えのある補聴器がついていた。
    湊は息をのむ。
    (え……?補聴器。俺と同じ……?)
    鼓動が急に速くなる。
    「ちょっと話を聞いてみよう。」
    真帆は受付にいた先生へ声をかけた。
    「すみません。友達が聴覚障害なんですが、もしよかったら、あちらの学生さんのお話を聞かせていただくことはできますか?」
    先生は笑顔でうなずいた。
    「もちろんですよ。少し待っていてくださいね。」
    数分後。
    白衣姿の男子学生がこちらへ歩いてきた。
    優しい笑顔だった。
    先生が男子学生を紹介する。
    「森崎直人くん。歯科技工士学科二年生です。」
    森崎もすぐに手話であいさつをした。
    『こんにちは。』
    『森崎直人です。』
    湊も少し緊張しながら手話で返す。
    『神崎湊です。』
    『高校二年生です。』
    『今日は友達のオープンキャンパスについて来ました。』
    『それで……。』
    湊は少し遠慮がちに続けた。
    『森崎さんの補聴器が見えて。』
    『この仕事って、聴覚障害でもできるんだって驚いて。』
    森崎はふっと笑った。
    『そうだよね。よく言われる。』
    湊は思わず前のめりになる。
    『本当にできるんですか?』
    『うん。もちろん。』
    森崎は迷いなく答えた。
    『僕は先天性の聴覚障害なんだ。』
    『父が歯科技工士でね。』
    『小さい頃から仕事を見て育った。』
    『それに、この仕事は聞こえなくてもできる仕事だって知ってた。』
    『でも一番の理由は、それじゃない。』
    森崎は実習室を振り返った。
    学生たちが集中して歯を削っている。
    『ものを作るのが好きだった。』
    『細かい作業も好きだった。』
    『完成した時の達成感が好きだった。』
    『だから、この仕事を選んだ。』
    湊はその言葉を静かに聞いていた。
    「歯科技工士って、どんな仕事なんですか?」
    今度は真帆が尋ねる。
    森崎は机の上にあった模型を手に取った。
    「歯科医師が患者さんの治療をして、型やデータを送ってくれる。」
    「それをもとに、患者さん一人ひとりに合わせた歯を作る仕事です。」
    「昔は石こう模型やワックスを使うことが多かったけれど、今はデジタル化がどんどん進んでいます。」
    近くのモニターを指差す。
    そこには歯の立体画像が映っていた。
    「口の中をスキャンして、そのデータをパソコンで設計して。」
    「CADというシステムを使って形を作る。」
    「さらに3Dプリンターやミリングマシンで加工することもある。」
    「もちろん最後は人の手で細かく仕上げるけどね。」
    湊は目を輝かせていた。
    パソコン。
    機械。
    そして細かなものづくり。
    どれも好きなことばかりだった。
    森崎は続ける。
    「歯科技工士は一人で仕事をするイメージがあるけど、それだけじゃない。」
    「歯科医師と相談しながら、『もっと自然な色にしよう』『噛み合わせを調整しよう』って話し合うことも多い。」
    「コミュニケーションもすごく大切なんだ。」
    「でも僕たちはメールやチャット、筆談を使うから、不便はあっても困ることばかりじゃないよ。」
    湊は少し安心したように笑った。
    『聞こえないから諦めるしかないって思ってました。』
    森崎は首を横に振る。
    『違うよ。』
    『聞こえないからできる仕事を探すんじゃない。自分がやりたい仕事を見つけて、どうやったらできるか考えるんだ。』
    その一言が、湊の胸に深く残った。
    『自分がやりたい仕事……。』
    森崎は笑う。
    『湊くん。』
    『今日、ここへ来てくれてよかった。』
    『未来って、知らないだけで意外と広いよ。』
    しばらく話をしたあと、湊はそっとスマートフォンを取り出した。
    『あの……。』
    『もしよかったら、また相談してもいいですか?』
    『進路のこととか、大学のこととか。』
    森崎はすぐに笑った。
    『もちろん。LINE交換しよう。』
    二人はその場で連絡先を交換した。
    少し離れたところから、その様子を見ていた真帆は自然と笑顔になっていた。
    (よかった。湊くん……。未来へ歩き始めた。)
    大学へ来る前まで、湊の夢は「まだ分からない」だった。
    でも今は違う。
    「やってみたい」が生まれた。
    その小さな一歩が、何よりもうれしかった。
    帰り際、実習室をもう一度振り返ると白衣姿の森崎が、手を振ってくれた。
    湊も笑顔で手を振り返す。
    そして心の中で、小さくつぶやいた。
    (また来ます。)
    夏空には白い入道雲が大きく広がっていた。
    湊の前にも、今まで見えなかった未来への道が、ゆっくりと開き始めていた。

    オープンキャンパスから一週間が過ぎ夏休みも半分を過ぎた。毎日のように二人は図書館へ通う生活が続いている。
    朝から勉強を始め、昼は近くの公園で休憩する。午後はまた机に向かう。
    オープンキャンパスで刺激をされたせいか、そんな日々が不思議と苦ではなかった。
    「今日はここまでにしようか。」
    真帆が伸びをする。
    窓の外では、夕方の陽射しが木々をオレンジ色に染めていた。
    二人はいつもの公園のベンチへ向かった。
    自動販売機で飲み物を買うのも、いつの間にか恒例になっている。
    真帆はカフェオレ。
    湊はアイスミルクティー。
    『夕方でもまだ暑いね。』
    真帆がLINEを送る。
    『夏休み終わったら、学校始まって忙しくなる。』
    湊も返信する。
    『秋は行事もあるしね。』
    真帆は少し考えてからスマートフォンを打ち始めた。
    『私ね。決めた。』
    湊が画面を見る。
    『T大の歯学部へ行く。それで自分の意思で、ちゃんと歯科医師を目指そうと思う。』
    湊はすぐに笑顔になった。
    『自分で決められてよかった。』
    『ありがとう。』
    真帆は続ける。
    『前はね、歯医者になるしかないって思ってた。』
    『お父さんも歯医者だから。』
    『何となく流されてる気がしてた。』
    『でも、大学へ行って考えが変わった。』
    『研究もある。教育もある。AIやデジタル歯科もある。』
    『大学へ入ってから見つけられる夢もあるんだって思えた。』
    『だから。』
    『ちゃんと自分で選んで歯学部へ行きたいって思えた。』
    湊はその文字を何度も読んだ。
    『真帆らしいね。』
    『え?』
    『ちゃんと考えて決めたんだね。』
    真帆は少し照れくさそうに笑った。
    「ありがとう。」
    今度は湊が少し決心したような表情でスマートフォンを開く。
    『俺も。』
    真帆は画面を見る。
    『決めた。』
    『歯科技工士になる。』
    思わず顔を上げる。
    「本当に?」
    湊は笑顔でうなずいた。
    『森崎さんと話してから、いっぱい調べた。』
    『歯科技工士の仕事も動画で見た。』
    『CADも面白そうだった。細かい作業も好きだし。俺、ものづくり好きなんだよね。』
    真帆は嬉しそうに笑う。
    『うん。』
    『向いてると思う。』
    湊は少しだけ照れながら続けた。
    『それに。』
    文字を打つ指が少し止まる。
    『医療に関われる。』
    『今までは、俺は病院で助けてもらう側だった。』
    『子どもの頃から、先生にも看護師さんにもいっぱい助けてもらった。』
    『だから今度は。』
    『誰かを助ける側になりたい。』
    真帆はその文字を見つめた。
    その言葉が、とても湊らしいと思った。
    優しくて。
    真面目で。
    人のために頑張れる人だから。
    『きっとなれるよ。』
    真帆はそう送った。
    湊は少し照れたように笑う。
    『ありがとう。』
    しばらく沈黙が流れる。
    風が少しだけ涼しくなってきた。
    セミの声も、夕方になると少し弱くなる。
    湊はもう一度スマートフォンを開いた。
    『それにさ。』
    『もし同じ大学に行けたらいいなって。』
    『いつか真帆と一緒に仕事できるかもしれないよね。』
    真帆は一瞬固まった。
    その言葉を何度も読み返す。
    胸が温かくなる。
    実は。
    自分も同じことを考えていた。
    『私も思ってた。』
    真帆は少し頬を赤くし、恥ずかしそうに送信した。
    『え?』
    『湊くんと一緒に働けたらいいなって。』
    『歯科医師と歯科技工士。』
    『患者さんのために一緒に治療できたら素敵だなって。』
    湊は目を丸くした。
    それから、声を出さずに笑った。
    本当に嬉しそうだった。
    『じゃあ。』
    『約束。』
    『約束?』
    『同じ大学へ行こう。』
    『そして。』
    『一緒に働こう。』
    真帆は大きくうなずいた。
    『うん。』
    『約束。』
    二人は小指を見合わせた。
    少し照れながら、小指を絡める。
    言葉はいらなかった。
    その約束だけで十分だった。

    帰り道。
    駅まで歩きながら、湊がLINEを送る。
    『第一志望。T大学にする。』
    真帆は思わず笑った。
    『倍率高いよ?』
    『知ってる。でも歯学部はもっと難しいよね(笑)』
    『だから。』
    『もっと勉強しないと。』
    『だね。』
    二人は顔を見合わせた。
    「よし。」
    真帆が小さく拳を握る。
    「この夏でレベルアップ!」
    湊も笑って拳を作る。
    『負けない。』
    『私も。』
    夕焼けの中、二人の影が長く伸びていた。
    恋人になったわけではない。
    それでも。
    二人の未来は、同じ方向を向き始めていた。
    その日交わした「一緒に働こう」という約束は、受験という長い道のりを支える、小さくて大きな夢になったのだった。

    高3になった夏の終わり。
    蝉の声が少しずつ遠ざかり、朝晩の風に秋の気配が混じり始めた。
    文化祭が終わると教室は、それまでとは違う空気に包まれていた。
    誰もが本格的な受験モードへ切り替わる。
    真帆も湊も例外ではなかった。
    図書館での勉強会は続いていたが、以前のようにゆっくり散歩をしたり、カフェで長話をしたりする時間はほとんどなくなった。
    それでも、二人は一日一度だけは必ず話をする時間を決めていた。最近はお互いの勉強進捗報告会になりつつあるが。
    「疲れた……。」
    真帆が机に突っ伏す。
    湊がスマートフォンを差し出した。
    『今日は何時間勉強した?』
    『学校を入れたら九時間くらい。』
    『負けた。』
    『俺、八時間。』
    『十分すごい(笑)』
    そんな何気ないやり取りだけで、お互いに少し元気になれた。
    勉強会では役割が自然に決まっていった。
    数学。
    化学。
    物理。
    理系科目は真帆が教える。
    「ここは公式を覚えるより、どうしてそうなるか考えた方が忘れないよ。」
    湊は何度もうなずきながらノートを取る。
    「たしかに。そういう考え方か。」
    理解が早くなった。一度納得すると応用も利く。
    真帆は教えながら何度も思った。
    (湊くん、本当に伸びた。)
    一方で、社会や英単語の暗記は二人で問題を出し合った。
    「じゃあ‘論ずる‘の英単語をあげてみよう。」
    『discuss』
    「debate」
    『argue・・・』
    「claim。他には、えっと……。」
    間違えるたびに二人で笑った。
    勉強なのに、どこか楽しい。
    教えることは、真帆自身の復習にもなっていた。
    「人に教えると覚えるよね。」
    『俺も思う。』
    『説明できるようになると、本当に理解した気がする。』
    二人は知らず知らずのうちに、お互いを高め合っていた。

    秋が深まる頃、湊は森崎直人と連絡を取り続けていた。
    大学生活のこと。実習のこと。受験のこと。
    森崎は実技試験で使う器具の写真まで送ってくれた。
    ある日、湊は不安そうにスマートフォンを見つめていた。
    「どうしたの?」
    真帆が尋ねる。
    湊は画面を見せた。
    森崎からのメッセージ実技試験の詳細についてだった。そして
    『焦らなくていい。去年の今頃、俺も毎日不安だった。でも今振り返ると、一日一日の積み重ねしかなかった。今日やることを、今日やればいい。』
    湊は小さく笑った。
    『直人さんって、すごく安心する。』
    『いい先輩に会えたね。』
    『うん。』
    『俺もいつか、あんな先輩になりたい。』
    真帆は静かにうなずいた。
    冬。
    街にはクリスマスソングが流れ始めた。
    でも二人には、季節を楽しむ余裕はほとんどない。
    共通テストまで、あと一か月。
    湊は英語に力を入れていた。
    聴覚障害のため、リスニングは免除となり、リーディングの得点を換算して評価されるからだ。だからこそ、一点でも多く取らなければならない。
    単語帳はページが擦り切れ、英文には何本もの線が引かれていた。
    「英語、すごく伸びたね。」
    真帆が模試の結果を見る。
    『直人さんにも言われた。英語は武器になるって。』
    一方、真帆も必死だった。
    歯学部の入試は簡単ではない。
    二次試験では高い学力が求められる。
    模試の判定は、最後まで安心できるものではなかった。
    それでも、弱音を吐くことはなかった。
    弱音を吐けば、きっと相手も不安になる。
    だから二人は、励まし合うことを選んだ。
    『今日も頑張ろう。』
    『うん。』
    『一歩ずつ。』
    その短い言葉が、お守りのようになっていた。
    そして迎えた試験当日。
    空気は凍るように冷たい。
    T大学のキャンパスには、たくさんの受験生が集まっていた。
    真帆は深呼吸をする。
    (ここまでやってきた。大丈夫。自分を信じよう。)
    少し離れた場所では、湊も試験会場へ向かっていた。
    実技試験。
    小論文。
    そして個人面接。
    森崎から教わったことを何度も思い返す。
    「自分の言葉で話せばいい。」
    「聞こえないことを隠さなくていい。」
    「どうしてこの仕事を目指すのか、なぜこの大学なのか、しっかり伝えればいい。」
    面接では、チャットを使って質問に答えた。
    一文字ずつ丁寧に。
    飾ることなく、自分の思いを書いた。
    『子どもの頃から医療に支えられてきました。』
    『今度は私が、医療を支える側になりたいと思っています。』
    『歯科技工士として、患者さんの笑顔をつくる仕事がしたいです。』
    試験官は静かにうなずいた。

    一方、真帆は二日目の面接を終え、試験会場を出た。
    冷たい冬空を見上げる。
    長かった。
    本当に長かった。
    それでも、不思議と悔いはなかった。
    あとは結果を待つだけ。
    駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
    湊からだった。
    『終わった?』
    真帆は笑った。
    『終わったよ。お疲れ様。』
    少し間があって、湊からもう一通届く。
    『ここまでありがとう。』
    真帆はその文字を見つめた。
    ゆっくりと返信を打つ。
    『こちらこそ。』
    『一緒に頑張れて、本当によかった。』
    送信すると、肩の力がふっと抜けた。
    春が来るかどうかは、まだ分からない。
    でも、一つだけ確かなことがあった。
    あの日交わした「一緒に同じ大学へ行こう」という約束に向かって、二人は最後まで全力で走り切ったのだった。

    三月。
    長かった冬が終わろうとしていた。
    駅前の桜はまだ固い蕾のまま。それでも、少しだけ春の匂いがしていた。
    合格発表の日。
    朝から真帆は落ち着かなかった。
    スマートフォンを何度見ても時間は進まない。今日はいつもより一分、一秒が長く感じる。父も母も、何も言わずに朝食を食べている。
    「……結果は一人で見てくるね。」
    そう言って部屋へ戻る。
    午前十時。
    大学の合格発表。画面の更新ボタンを押す指が震える。
    (お願い……。)
    ページが切り替わるり、受験番号の一覧。
    上から順に目で追う。
    「……あ。」
    あった。
    自分の番号だった。
    「あった……。」
    もう一度見る。
    もう一度。
    間違いない。
    そこには確かに、自分の受験番号があった。
    その瞬間、目から涙があふれた。
    真帆はリビングのドアを開け開口一番。
    「お母さん……。」
    「真帆?」
    母が顔をのぞかせる。
    真帆は涙をぬぐいながら、大きくうなずいた。
    「受かったよ……!」
    母は真帆を抱きしめた。
    「頑張ったね……。本当によかった。」
    少し遅れて父も部屋へ入ってくる。
    普段はあまり感情を表に出さない父だったが、その日は静かに笑っていた。
    「おめでとう。頑張ったな。」
    その一言だけだった。
    でも、その声には娘への誇らしさがあふれていた。

    真帆は震える手でスマートフォンを開いた。
    一番最初に送りたい相手は決まっていた。
    湊。
    『私、受かったよ』
    送信して数秒。
    画面が震える。
    『俺も!!!』
    真帆は思わず笑った。
    涙が止まらない。
    すぐに電話を……。
    そう思ってから苦笑した。
    (あ、電話じゃ話せないんだった。)
    代わりに、
    『会おう!』
    と送る。
    返信は一秒もかからなかった。
    『うん!』
    二人はいつもの公園で待ち合わせをした。
    冬の間は葉を落としていた木々にも、小さな新芽が見え始めている。
    湊が先に来ていた。
    真帆を見るなり、大きく手を振る。
    こんなにはしゃぐ湊を見るのは初めてだった。
    真帆も思わず走る。
    「湊くん!」
    声を出した瞬間、自分で照れた。
    湊は笑いながらスマートフォンを見せる。
    『合格おめでとう。』
    真帆も急いで打つ。
    『湊くんも!おめでとう!』
    『すごかったね。』
    『本当に頑張った。』
    湊は照れくさそうに頭をかいた。
    『真帆のおかげ。』
    『え?』
    『数学も化学も。』
    『全部教えてくれた。』
    『一人じゃ無理だった。』
    真帆は首を横に振る。
    『違うよ。』
    『努力したのは湊くん。』
    『耳から入る情報が少ない中で、あそこまで勉強したんだもん。』
    『本当に尊敬する。』
    湊は少しだけ照れたように笑った。
    そして、ゆっくりと文字を打つ。
    『真帆こそ。』
    『自分の受験があるのに。』
    『俺の勉強まで見てくれて。』
    『本当にありがとう。』
    しばらく二人とも何も打たなかった。
    言葉が追いつかない。
    ただ、お互いの顔を見て笑う。
    それだけで十分だった。
    少し歩きながら、大学のパンフレットを広げる。
    「四月からここだね。」
    真帆がパンフレットを指さして笑う。
    『同じキャンパス。』
    『うん。』
    『私は歯学部。』
    『俺は歯科技工士学科。』
    湊は少し照れくさそうに笑った。
    『夢が一つ叶った。』
    『一つ?』
    湊は真帆を見る。
    『もう一つは一緒に仕事すること。』
    真帆は思わず吹き出した。
    「まだ先だよ。」
    湊も笑う。
    『だから。』
    『もっと勉強する。』
    『歯医者さんが安心して任せられる技工士になる。』
    『真帆の指示どおりに、ちゃんと作れるように。』
    真帆は顔が少し赤くなる。
    『私も。』
    『もっと勉強する。』
    『患者さんに信頼される歯科医師になる。』
    『そして……。』
    少し照れて笑う。
    『湊くんと一緒に、たくさんの人を笑顔にしたい。』
    二人は顔を見合わせた。
    春風がやさしく吹き抜ける。
    桜の枝が小さく揺れた。
    まだ花は咲いていない。
    でも、その蕾は確かに春を待っていた。

    帰り道。
    駅まで歩きながら、湊がふと立ち止まる。
    スマートフォンではなく、真帆の耳元に近づいて小さく声を出した。
    「……ま ほ。」
    真帆が振り返る。
    湊は少しだけ恥ずかしそうに笑った。
    「・・ずっと。」
    言葉を探すように、ゆっくり口を動かす。
    「よろし・く。・・」
    少したどたどしい発音だった。
    でも、その一言には、どんな長い文章よりもたくさんの想いが込められていた。
    真帆は笑顔でうなずく。
    「こちらこそ。」
    「よろしくね、湊くん。」
    二人は並んで歩き始めた。
    一つ目標はかなった。
    でも。
    二人の夢は、まだ始まったばかりだ。

    人は、目から約八割の情報を得ると言われている。
    耳から得る情報は、およそ一割。
    そんな話を、いつだったか聞いたことがある。
    昔の私は、その意味を深く考えたことはなかった。
    見えることも。
    聞こえることも。
    それが当たり前だったから。
    でも。
    湊と出会って、その「当たり前」は当たり前ではないと知った。
    春。
    キャンパスを歩く二人の姿があった。
    真帆は歯学部。
    湊は歯科技工士学科。
    同じキャンパス。
    同じ春。
    あの日、公園で交わした約束が、今日から本当に始まる。
    『大学生になれちゃったね。』
    真帆が笑う。
    湊はスマートフォンを取り出し、少し考えてから文字を打った。
    『まだ実感ない(笑)』
    真帆も笑う。
    『私も。』
    キャンパスには、新入生たちの笑顔があふれている。
    サークル勧誘の声。
    友達同士ではしゃぐ学生たち。
    湊には、その声は聞こえない。
    でも、その笑顔は見えている。
    その空気は感じている。
    そして、その隣には真帆がいる。
    それだけで十分だった。
    その時。後ろから自転車が勢いよく近づいてきた。
    「危ない!」
    真帆は反射的に湊の腕を引いた。
    自転車は二人のすぐ横を走り抜けていく。
    湊は少し驚いたように振り返り、それから笑った。
    『ありがとう。気付かなかった。』
    真帆は少し真面目な顔をして言った。
    『うん・・・。』
    『私なるべく湊くんの耳になるね。』
    湊は少し驚いた顔をした。
    『湊くんが気付けない音は、私が伝える。救急車も。自転車も。後ろから呼ぶ声も。全部。』
    湊はしばらく真帆を見つめていた。
    それから、小さく笑う。
    スマートフォンを取り出す。
    『じゃあ。』
    『俺は真帆の目になる。』
    真帆は首をかしげる。
    『真帆は自分では気づいていないけど。』
    『俺は真帆が疲れてる時は、すぐに分かる。』
    『笑ってても、ちょっと無理してる時も分かる。』
    『だから、その時はちょっと一休みって俺が伝える。』
    二人は見つめ合って穏やかに笑った。
    『聞こえないことより。』
    湊は笑って言う。
    『気付けないことの方が困る。』
    私はその意味が少しずつ分かるようになった。
    耳は聞こえていても。言葉を聞いても。
    言葉の裏にある人の気持ちに気付けないことはある。
    見えていても。
    見ようとしなければ見えないものがある。
    でも湊は、いつも人をよく見ていた。
    表情。
    仕草。
    視線。
    ただ見るだけではなく、心を見ていた。
    だから私は思う。
    私は湊の耳になろう。
    湊は私の目になってくれる。
    足りないものを埋め合うのではなく。
    一人では気付けない事を、一緒に見つけていく。
    そんな関係でいたい。
    人は目から約八割、耳からは、およそ一割の情報を得る。
    だけど。
    恋はきっと、そんな数字では測れない。
    聞こえる人も。
    聞こえない人も。
    同じように笑って。
    同じように悩んで。
    同じように誰かを好きになる。
    だって恋は、音だけでするものじゃない。
    目で見て。手で触れて。文字を交わして。
    心で感じるものなんだ。
    私は今日も、湊の隣を歩いている。
    湊も、私の隣を歩いている。
    同じ空を見上げながら。
    同じ未来を見つめながら。
    あの日。
    花火を見ながら。
    コップの水面を見て、
    「聞こえたね。」
    と笑い合った。
    あの瞬間から。
    私たちには。
    同じ音が。
    恋が聴こえている。
    この音を。
    私たちはずっと、
    これからも二人で聴いていく。

     
     
    水川 雅(みずかわ みやび)。 人と人のあいだ、家族のかたち、優しさ 名前のつかない関係性を描く小説を書いています。 連載・短編・スピンオフ中心。 途中からでも読めます📖

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