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── 「今日も黙って働いている人」のために、構造を変えること

マガジン:介護を抱えた社員が、今日も黙って働いている|おわりに


ケアマネジャーの仕事を始めた頃

ケアマネジャーになりたてのころ、ある家族のことを思い出す。

50代前半の女性で、フルタイムで働きながら一人で母親の介護をしていた。担当になった私が最初の訪問を終えて帰るとき、玄関先で彼女は言った。「ありがとうございます、誰かに話を聞いてもらったのは、久しぶりです」。

その言葉が、ずっと残っている。

介護が始まって半年が経つのに、誰にも話せていなかった。職場では「私用で休みます」と言うだけ。友人には「忙しくて」とだけ言う。ケアマネジャーである私に話してくれたのは、「娘として介護をどうすべきか」ではなく、「誰にも言えなかった」という孤独だった。

私がケアマネジャーとして関わってきた何百人もの家族の中に、彼女のような人が何人いたか。「久しぶりに誰かに話せた」という言葉が、どれだけ繰り返されてきたか。

その言葉を聞くたびに、「なぜ、この人が誰かに話せたのが私との初対面だったのか」という問いが浮かんだ。職場がある。友人がいる。家族がいる。それでも話せない場所があった。「ケアマネジャーなら話せる」という特別性ではなく、「職場には言えない」「家族には心配をかけたくない」「友人には重いと思われそう」という消去法の末に、私だけが残っていた。

その積み重ねが、このマガジンを書く動機になった。


自分自身が、その「一人」になった日

しかし正直に言えば、私は長い間、「支援する側」の視点しか持っていなかった。

ケアマネジャーとして家族介護者を支えながら、自分自身が介護者になったとき、私は同じ構造の中にいた。

職場に言えなかった。「専門職なのだから、自分で何とかできる」という思い込みがあった。「介護のために仕事を調整してほしい」と言うことが、弱さを見せることのように感じた。そして消耗が続き、ある日、仕事を辞めた。

辞めた後、再就職の難しさに直面した。年齢、ブランク、働き方、「また突然辞めるかもしれない」という採用側の視線。専門職としての資格はある。経験もある。しかしキャリアの断絶は、想像以上に深い傷だった。
「次のステップに進むためには介護が落ち着くのを待つしかない」という感覚が、ある時期の自分を支配していた。しかしその「落ち着く」はなかなか来ない。介護には終わりがあるが、そのタイミングは誰にもわからない。そのあいまいな時間の中で、キャリアが止まり続ける。
これが、介護離職の「その後」の現実だ。

自分が「当事者」になって初めて、「支援する側」から見えていなかったものが見えた。

制度を知っていても、使えない。専門職でも、言えない。「黙って働いている」ことの苦しさは、制度の知識では和らがない。
職場の空気と、組織の文化と、「言ったら何かが変わってしまうかもしれない」という恐れが、沈黙を作る。

その経験が、「内側から見てきた者が、外側から変えるための言語を作る」というこのマガジンの軸になった。


大学院で得たもの

介護離職後、大学院に入学した。社会福祉とマーケティングを組み合わせた研究の中で、「支援が届かない構造」を言語化する方法を学んだ。

現場で感じていたことが、研究の概念と重なったとき、霧が晴れるような感覚があった。

プレゼンティーズム。省庁の縦割り。設計の問題。心理的安全性。人的資本。就労継続支援の体系化。
これらの言葉が、「なんとなく問題だと思っていたこと」を「語れるもの」に変えてくれた。

語れるようになると、提案できる。提案できると、変えられる。

このマガジンは、その「語れる言語」を、現場で声を上げたい人に届けるための試みだ。
研究の場でしか使われない言語を、職場で使える言語に変換すること。
それが、ケアマネジャー・当事者・研究者という三つの立場を持つ私にできることだと思っている。


このマガジンが届いてほしい人

書きながら、ずっと想定していた読者がいる。

一人目は、今まさに介護と仕事の板挟みにある人だ。職場に言えないまま、有給休暇を使いながら、「自分だけがこんな状況なのか」と孤独を感じている人。このマガジンが「あなただけじゃない、設計の問題だ」という言葉を届けられたなら、それだけで十分だ。

二人目は、職場に「変えたい」という気持ちを持ちながら、「どう言えばいいかわからない」と止まっている人事担当者や管理職だ。「根拠がほしかった」「言葉がほしかった」という人に、この20本が武器になってほしい。

三人目は、ケアマネジャーや地域包括支援センターのスタッフ、社会福祉士、医療職など、福祉の現場で働く専門職だ。「企業側に伝えたいが、言語がない」と感じてきた人に、企業の言語で書いたこのマガジンが橋渡しになってほしい。

そして四人目は、この問題をまだ「他人事」と思っている人だ。介護はいつか必ず来る。その前に知っておくことが、自分自身を守ることになる。「予習」として読んでもらえるなら、それも嬉しい。


20本を書き終えて

「はじめに」から「第20記事」まで、20本のNote記事を書いた。

書きながら、何度も自分の経験が浮かんだ。玄関先で「久しぶりに話せた」と言った女性の顔。介護のために故郷に帰った男性の話。旅行に行けるほど自分の生活を維持しながら介護をしていた方の、ある意味での「当たり前」を守る力。支援を受けられないまま消耗していった人たちの、取り返しのつかない時間。

これらは統計の数字の背後にある、一人ひとりの現実だ。

数字を見ながら、その数字が「今日この瞬間も動いている」という感覚を持ち続けることが、このマガジンを書き続ける原動力だった。
364万人が黙って働いているのは、今日のことだ。
昨日のことでも、過去のことでもない。
今この瞬間、誰かが有給休暇を使い切りながら、「もう少しだけ」と自分に言い聞かせている。

364万人という数字の背後には、364万人分の生活がある。

誰にも言えないまま有給休暇を使い、親の受診に付き添い、職場では何もなかったように席につく人がいる。
「もう少しだけ」と自分に言い聞かせながら、今日を乗り切っている人がいる。

私が届けたかったのは、その人たちに向けた一つの言葉だった。

あなたの状況は、あなたの弱さではない。
それは、設計の問題である。
そして、設計は変えることができる。


これから先の問いとして残すこと

このマガジンで語れなかったことが、まだある。

一つは、介護を受ける側──要介護者本人の声だ。「子どもに仕事を辞めてほしくない。仕事の邪魔をしたくない。」という高齢者の言葉を、ケアマネジャーとして何度も聞いた。介護される側が抱える申し訳なさ、罪悪感、「自分のせいで」という思い──これは、ビジネスケアラーの問題と表裏一体だ。仕事を続けられる体制を作ることは、介護される人の精神的な負担を軽くすることでもある。

もう一つは、男性ビジネスケアラーの問題だ。「介護は女性の問題」という誤解は根強い。しかし男性が介護に直面したとき、相談相手がいない、職場に言えない、家族内でのサポートを得られないという困難を、女性以上に感じるケースがある。男性ケアラーの孤立という問題は、まだ十分に語られていない。

そしてヤングケアラー。10代・20代で家族の介護を担う人たちの問題も、「仕事と介護の両立」という文脈の予備軍として、見えないまま積み上がっている。

これらは、このマガジンの「次」として残す問いだ。


「変えたい人」へのエール

最後に、このマガジンを読んで「何かしたい」と思った人へ。

大きな変化でなくていい。
1on1で一言、「介護のことで何かあれば話してほしい」と伝えること。
社内制度を確認して、必要な人に知らせること。
信頼できる誰かに、自分の状況を少し話してみること。

その小さな一歩が、誰かの孤独を少しだけ軽くすることがある。

社会は、こうした見えない一歩の積み重ねで変わっていく。
私も、その一歩を踏み出し続けたい。


謝辞に代えて

このマガジンを書くにあたって、関わってきた多くの家族介護者の方々に感謝したい。

名前を出すことはできない。しかしあなたたちの語ってくれた言葉、見せてくれた現実、乗り越えてきた時間が、このマガジンのすべての基盤になっている。

「久しぶりに誰かに話せた」という言葉を言ってくれたあなた。
「介護を続けながら旅行にも行けた」と笑って話してくれたあなた。
「もう限界です」と話してくれたあなた。
キャリアを捨てて故郷に帰ったことを話してくれたあなた。

あなたたちの一人ひとりが、このマガジンを書かせてくれた。

あなたたちの存在が、「構造を変えよう」という動機になった。

そして、このマガジンを最後まで読んでくれたあなたへ。

知ることは、動くことの前提になる。
この文章を読んでくださったこと自体が、すでに小さな一歩だと思っている。

いつか、あなたの職場で、あなたの地域で、あなた自身の生活の中で、この言葉のどこかが役に立つことを願っている。

介護を抱えた社員が、今日も黙って働いている。

その現実を、少しずつ変えていくために。


「今日も黙って働いている人」のために

このマガジンを、職場で声を上げる根拠として使う人がいてほしい。

企業の中で「うちの会社でも変えよう」と動き始める人事担当者・管理職がいてほしい。

「専門職として、企業との連携を試みてみよう」と思うケアマネジャーがいてほしい。

「自分も介護を抱えながら働いているが、今日、少し誰かに話してみよう」と思う当事者がいてほしい。

制度は、一気に変わらない。文化は、もっと時間がかかる。

しかし職場の空気は、一人の言動で少し変わる。
その積み重ねが、文化を変える。文化の変化が、制度設計を後押しする。
制度が変わると、次の一人が声を上げやすくなる。

この連鎖を信じて、書き続けた。

変化は遅く見える。一人が声を上げても、すぐには職場が変わらない。
一企業が制度を整えても、すぐには社会が変わらない。
それでも続けることの意味は、「積み重なると見える」ということだ。
振り返ったとき、点が線になっている。声の集まりが、流れになっている。

「介護を抱えた社員が、今日も黙って働いている」という現実が、少しずつ変わっていく。
「今日も」が「昨日まで」になる人が、一人ずつ増えていく。

その未来に向けて──このマガジンを出す。

2026年5月、仕事後介護の両立支援事業化プロジェクトの一環として、この連載を書き終えた。社会福祉士・主任介護支援専門員として現場で関わってきた経験と、大学院での学びと、自分自身の介護離職という経験が、ここに一つの形になった。完成ではなく、始まりとして。


ここまで一緒に考えてくださって、本当にありがとうございました。
この連載が、誰かの職場を少しだけ変え、今日も黙って働いている誰かの支えになることを願っています。


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「介護を抱えた社員が、今日も黙って働いている──沈黙の構造と、変えるための根拠」全22本、完結。



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福祉現場での実践と、大学院での学びを往還しながら、「仕事と介護の両立支援」を研究しています。 ワークサポートケアマネジャー/主任介護支援専門員/社会福祉士 ご相談は、必要に応じて個別にご案内しています。