
DVを受けて育った私が、子どもに贈りたかったものもの
子どもの頃から、何度も何度も聞かされてきた。
「凛花のお父さんほど偉い人はおらへんで」
「こんな優しい人、なかなかおらへんで」
祖母と、2人の叔母たちが、同じことを言ってきた。
会社を経営し、仕事ができることも、聞かされてきた。
私も、そう思わされてきた。
だからこそ――
その父からの言葉は、私の胸に突き刺さった。
家の中での父は なぜか私にだけ
人格を否定する言葉を繰り返した。
妹には言わない言葉を私には言うのです。
「なんで私だけに酷いこと言うてん?」
と、聞くと
「お前は後取りやし、英子(妹)は嫁に行く子やったから」
と答えた。
私は五十歳になった頃、ひとつの言葉に、まだ縛られていた。
十八歳のとき、父の弟である叔父に言われた言葉。
「お前はきっと理屈を言う人間やろ。世の中で一番嫌われる人間やわ。お前は叩かれて育ってないから兄貴が育て間違えた失敗作やわ。」
あのとき、泣いている私に家族の誰一人として「そんなことないで」と言ってくれる人はいなかった。
だからその言葉は、ずっと、私の心に刺さったままだった。
掃除をしているときも、料理をしているときも、洗い物をしているときも、
浮かび続けることがあった。
頭の中で繰り返し再生されるのです。
五十歳のある日、父母の家の茶の間で父、母、叔母夫婦、そして私の五人で昼ご飯を囲んでいた。
何気ない会話の中で、私はその話を口にした。
「私な、おじさんに“世の中で一番嫌われる人間や”って言われたわ」
本当は、その先に続く言葉を待っていた。
「そんなことないで」と、誰かが言ってくれることを。
けれど返ってきたのは、叔母の一言だった。
「執念深いんやな。」
「違うで。そうじゃないで。」
そう言い返した私に、叔母はさらに重ねた。
「そうやがな、執念深いんやがな。」
そして父が続けた。
「凛花はな、だんだんと年を取るごとに、友達もおらんようになってしまうような人間なんやでよ。」
その瞬間、全身に言葉にならない、衝撃が走った。
私は何も言えなかった。
それからの半年間、私は父から逃げるように暮らした。
同じ家にいながら、顔を見ないように、声を聞かないように。
けれど、あれらの言葉は消えなかった。
何を思って、あの場であんな言葉を重ねたのか。
救いを求めて話したのに、
さらに傷つけられた。
あの茶の間での光景は、今でもはっきりと覚えている。
当時の私は、夫にも話を聞いてもらえなかった。
「なんでお前の親の愚痴聞かなあかんのや」
そう言われて、言葉を飲み込んでいた。
6年前、私たちが暮らす二世帯住宅の、私たち側の家をリフォームすることになった。
父は言った。
工務店は使うな。大工も水道屋も電気工事も、すべて自分で手配しろ——そのほうが安くつくと。
けれど、費用を出すのは私たち夫婦なのに、
いつも、父に従わなければならなかった。
この家では、それが当たり前のことだった。
お風呂のリフォームの打ち合わせの日。
大工さんと水道設備屋さんと私で話をしていると、父がやってきた。
そして突然、窓の高さの話をし始めた。
「この窓の高さは80センチや。こんなぶっさいくなん付けたんは、凛花が30年前にこれがええ言うたからや。今度は70センチにせえよ」
私は、心の中で思った。
この家を建てたとき、私の意見なんて何も聞かれていない。
この窓は父が決めたものだ。
でも、言わなかった。
その場にいる人たちの前で、父の面子をつぶさないように。
言葉を、飲み込んだ。
キッチンの工事の日。
私は勝手口を開け、まわりの物をすべてどかし、大工さんが出入りしやすいように準備していた。
大工さんが外に来られたのが見え、挨拶をしに出た。
そのとき、父も出てきた。
父は大工さんを、父たちの玄関のほうへ案内した。
しかし、その玄関には鍵がかかっていた。
次の瞬間、父は怒鳴った。
「なんで鍵開けとらへんのや!」
私は慌てて鍵を開けた。
でも、本来、大工さんは私の家の勝手口から出入りする予定だった。
そのことも、大工さんに伝えていた。
父の家の玄関の鍵を開けることは、
私の役目ではない。
それでも私は、責められた。
キッチンの図面の説明でも同じだった。
私は図面を見ながら、父に水道や電気の説明をした。
けれど父は途中で「貸せ」と言って図面を取り上げた。
そして怒ったように読み上げた内容は、
さっき私が説明したことと、まったく同じだった。
私は、また何も言えず、身体がバシバシと硬くなっていくのが分かった。
そういうことが、繰り返された。
理不尽さに 心がすり減っていった。
リフォームが終わる頃には、
私の心は、すっかり調子悪くなっていた。
ある朝。
夫と息子が出かけたあと、
私は一人で泣き叫んでいました。
そこへ父が来て、こう言ったのです。
「仲ようしたいんやでよ。許してくれえよ。」
その言葉を聞いても、
心は全く動かなかった。
50年以上続いてきた、
人格を否定されるような言葉や理不尽な言葉。
それらが、たった一言で消えるはずがなかった。
私は言った。
「お父さんが非難ばっかりしてきたったから、私はこんなことになってしもたんやで。」
その瞬間、父の顔が変わった。
「わしに向かってそんなこと言うとは、お前は、わしをなめとんかぁ~!」
「仲ようしたい」と言った、その直後だった。
私は静かに言った。
「なめてへんよ。
なめてないから、全部の言葉が心に刺さってるんやで。」
そして続けた。
「死にたくなるくらい辛い日もあるんやで。」
父は言った。
「お前は親の気持ちがわからん人間やから、そんなことを言うんや。」
私の苦しさには触れず、
返ってきたのは、また非難だった。
私は、ずっと認めてほしかった。
子どもの頃から、何度も人格を否定されながら、
それでも、認めてもらえるように頑張ってきた。
また必死で働いてきた。
学習塾を経営し、結果を出し
生徒たちを志望校へ送り出し
自分の子どもも大学まで行かせた。
けれど父は言った。
「塾なんか頑張らんでええことやでよ。」
「子供も大学なんか行かさんでええのに。」
私は言った。
「子どもの将来の選択肢を増やすためやで。」
けれど父は、
「お前は話が通じん人間なんや!」
「お前は怒らなあかん人間なんや!」
「お前は話が通じん人間なんや!」
「お前は怒らなあかん人間なんや!」
私を指さし、恐ろしく怖い顔をして、そう怒鳴って去っていった。
父が泣き叫んでいる所へやってきてから4時間がたとうとしていたが
結局、いつもと同じ、何を言っても非難と人格否定をされて終わるだけのことになったのである。
その後、私の状態はもっと悪くなっていった。
父の顔が何度も何度も浮かび、頭の中で父に言われた言葉が繰り返し響くようになった。
顔も、声も、消えない。
私は神経症とPTSDの症状を抱えるようになり、暫くして家を出た。
それでも、時間が経てば良くなると思っていた。
2年半が過ぎても、3年半が過ぎても、症状は消えなかった。
ある日、夫が言った。
「お父さんも反省しているみたいやし、一度話してみたらどうや」
「前とは違うかもしれへんで」
その言葉を信じて、私は父に電話をかけた。
自分がどれだけつらかったのか、苦しかったのか、
なぜこんな状態になったのか、必死に伝えた。
けれど父は言った。
「親に何言われても、普通の人は気にせえへんのんやでよ。」
「また言いよるわって、思うだけやでよ。」
「お前が普通じゃないんやでよ。普通じゃないから病気になるんやでよ」
私は、友人や心理士の言葉を伝えた。
長年の人格否定は、人を傷つけ、病気になることがあることを。
すると父は、あっさりと言った。
「そんなん、周りの人はお前に合わせて言うとるだけやわ。」
「ほんまは、思っとるかいや。」
「死にたくなるくらい辛いんやで」と伝えても、
父は言った。
「非難や人格否定と取るお前があかんのやでよ」
「死にたくなるなんて言うんは、親の気持ちが分からん人間やから言うんや」
「年とるごとに、友達もおらんようになってしまうような人間やと言われたら頑張って友達を作る努力するだけやでよ」
「世の中で一番嫌われる人間やって言われたら嫌われんように努力するだけやでよ」
「親に言われて つらいや悲しいと思うんは、お前が世の中で一番自分が偉いと思とうから辛いと思うんやでよ。それを直せいや。」
――まだ、非難が続いた。
私は,一番自分が偉いと思ったことなんてない。
決めつけないでほしい。
何を訴えても、私があかんから、悪いからになる
私は、限界だった。
「ほな、目の前で死んだるわ。私がどれだけ辛かったか分かればええんや。」
そう言って電話を切り、家へ向かった。
物置でロープを探していると、父が来た。
「何しとんどいや」
「今から首つるんや。どれだけ辛いか分かればええんや」
そう言った私に、父は言った。
「お前が死ぬんは、わしのせいじゃないでよ」
「お前自身の問題や」
「お前自身に問題があるんや」
「お前が自分本位なんやでよ。自分だけ死んで楽になろうとして」
「お前がわがままなんやでよ。純一君も困るでよ。30歳過ぎとっても母親が死んだら子どもらも困るでよ。」
さらに父は、リフォームの話まで持ち出した。
「お前は、ほんまに怒らなあかん人間なんやでよ。」
「今まで言ってなかったけど、大工はリフォームの時に三浦さんの家じゃなかったらこんな仕事引き受けてなかったと言うとった。お前がしたらあかんことしたか、言うたらあかんことしたかに決まっとる。」
私は説明した。
「それは、1時間か2時間の大工仕事が何日か続くだけの面倒くさい仕事やから世話になった三浦さんじゃなかったら、引き受けてないって言うとったったで。」
それでも父は言った。
「それは、わしがしてくれ言うたら、するだけのことやから。
お前がしたらあかんことしたか、言うたらあかんこと言うたんに、決まっとる。」
その言葉を聞いたとき、
私は、自分の苦しみが最後まで理解されないことを知った。
父は、ただ自分の正しさだけを押し通した。
父は、この場でさえも、私を非難し続けた。
夫が駆けつけ、その場は収まった。
けれど、私の中では何も収まらなかった。
それ以来、私の症状はさらに悪化した。
何度も何度も泣き叫び、
やるせない気持ちをどうすることもできなかった。
3ヶ月が過ぎても、
さらに追加されたあの日の言葉は胸に強く強く刺さったままだった。
50年以上続いた人格否定、その上に、あの日の言葉が私を苦しめた。
親なのに
娘が死にたいほど辛いと言っても、まだ私を非難し続ける
その現実が、何よりも苦しかった。
辛い毎日が続いていたので
もう一度、夫に進められて夫と共に父に会いに行った。
非難せず話を聞いてほしいと夫が頼んでくれたのだった。
けれど、顔を見た瞬間、私は過呼吸が始まった。
過呼吸の中、泣きながら訴えた私に、父は言った。
「ええ病院に変わらへんから治らへんのんや。」
何度も病院を変え、
いい先生やいい心理士を探し、
PTSDの専門治療にも通ってきた。
苦しくて、治したくて、必死に努力してきた。
それなのに、その努力はなかったことにされた。
私は、思わずティッシュの箱をドアに向かって投げつけた。
すると父は立ち上がり、怒鳴った。
「親に向かって物を投げるとは!」
「もう許さんぞ!」
その声で、呼吸ができなくなった。
私は倒れ、夫に抱えられて別の部屋へ運ばれた。
――何度話しても、伝わらない。
その現実だけが残った。
その後も私は、調子の悪い日が続き、何度も何度も泣き叫んだ。
そんな私に、妹が言ってくれた。
「普通は、そこまで辛いって言われたら謝るやろ」
「それでも自分の正しさを言い続けるなんて、おかしいわな。」
親友も今住んでいる借家の隣のおねえさんも、言ってくれた。
「もう、二度と会ったらあかんで。そんなことを、言う親がおるんやなあ。びっくりするわ。
話したって通じへんわ。病気の症状が悪くなるだけやから、二度と会ったらあかんで。
日が経ったら、必ず薄れていくからな。」
と励ましてくれた。
そして思った。
――もう、期待してはいけない。
父は、ここまでの人だったのだと。
それでも、私の周りには、話を聞いてくれる人がいた。
親友や、気にかけてくれる隣のお姉さん。
共感してくれる人がいた。
そのことが、どれだけ救いだったか。
どれだけ、ありがたかったか。
私が回復するには、やはり父と距離をとることだと思った。
夫がある日こう言ってくれた。
「世の中で一番嫌われるような人間が、
学習塾を三十年以上もやっていて、口コミだけで生徒が来るはずがないやろ」
古い建物でも、毎年生徒が集まっていた。
夫は続けた。
「お前の人間性がいいからやで。
そうじゃなかったら、そんなふうにはならへんで。」
その言葉を聞いたとき、心の中で何かが、少しだけ溶けた気がした。
けれど、長い年月、頭の中を繰り返し回ってきた言葉は強かった。
一度や二度、「そんなことないで」と言われただけでは、
治まるこはなかった。
十八歳のあの日、
誰も打ち消してくれなかった言葉の重さは、
四十年近く経っても、簡単には消えなかった。
私は、夫に頼んだ。
夫は、最初「面倒くさいな」と言いながらも、涙する私を見て繰り返し言ってくれるようになった。
「ほんまに、そんなことないんやから」
「お前は、そんな人間じゃないから」
心療内科の先生も言ってくれた。
「ご主人はいいところに目をつけて、いいことを言ってくれましたね。
学習塾のこと、それは本当ですよ」
少しずつ、少しずつ。
それらの言葉は私の心に積み重なっていった。
そして、六十二歳にもなった頃、
ようやく私は思えるようになった。
私は、そんな人間じゃない。
やっと私は,あの言葉を手放せるところまで来たのだと思う。
精神科医の先生には「可愛かったから、支配したかったんでしょうね」とも言われた。
父のエゴのせいで苦しんできたけれど、そんな人なんだと分かって諦めの境地に至るしかないと思っています。
母になる前に、砕かれた想い
第一子を身ごもっていた頃の私は、まだ見ぬ子どもに向けて、できる限りの準備をしておきたいと思っていた。
子育てが始まれば、仕事と育児に追われ、本を読む時間などきっとなくなる。
そう思った私は、お腹に子どもがいる数ヶ月の間、時間を見つけては育児書を読みあさった。
後悔したくなかった。
知らなかったでは済ませたくなかった。
だから、母になる前に学べることは、できるだけ学んでおこうと一生懸命だった。
私は学生の頃、ひとつの言葉が強く胸に残っていた。
「いい教育者である前に、いい母であれ」
その言葉は、いつの間にか私の中でひとつの軸のようになっていた。
いい母になりたい。
その思いは、私の中でいちばん大切なものだった。
それなのに——
長男が生まれたあと、父は私にこう言った。
「お前が子育てできるんかいや」
さらに、
「お前が育てて、ええ子になるんかいや」
私は戸惑いながらも答えた。
「本もたくさん読んだし、教育の勉強もしてきたし」
すると父は、ためらいもなく言い放った。
「教育の本なんか、ろくなもんあらへんでよ。
教育者の子どもなんか、みんなろくな子に育ってへん。
おかしな人間ばっかりやわ。」
その言葉は、ナイフのように私の心に突き刺さった。
私はすでに、学習塾を始めて七年ほどが経っていた。
子どもたちと向き合いながら、
ただ勉強を教えるだけではなく、その子なりのあり方も考えてきたつもりだった。
教育者の端くれのつもりだった
けれど——
本を読んだと言えば、
「そんなもん、あっかいや」と返ってくる。
——またか。
私の思いは、いつものように父によって砕かれた。
それでも、「いい母であれ」という私の軸は折れなかった。
それだけは、確固たるものがあった。
「私が子どもに贈りたかったもの」
子育てについて語るとき、私はいつも自分が育った家庭を思い出します。
私の母は、私の子どものころ感情的になると、私の頬をつねったり、昔の田舎の家にあった蔵へ閉じ込めたりしました。
その蔵は真っ暗で、重い扉が付いていました。子どもの力では到底開けられないような扉です。閉じ込められる理由も、子どもの私には納得できるものではありませんでした。
私は幼い頃から、母によく言っていました。
「子どもをしつけたいと思うなら、そんなふうにヒステリックに怒るんじゃなくて、なぜそれがいけないのか、どうしたらいいのかを、なぜそれの方がいいのかを分かりやすく説明してほしい。」
すると母は、「生理の前はイライラするんや」と言いました。
祖母もまた、皮肉を口にする人でした。
私は祖母にも、「皮肉ばかり聞かされて育つと、子どもは素直に育たないよ」と子どもながらに伝えていました。
すると祖母は、顔を険しくして、
「凛花が大人になって、どんな子育てをするか、よう見とったるわ」
と言いました。
母も、「私は学校の先生でもないのに、そんなことできるわけないわ」と返しました。
けれど私は、父や叔父からも、心ない酷い言葉を浴びせられながら育っていたからこそ、幼い頃から強く心に決めていたことがありました。
「こんな子育てだけは、絶対にしない。」
私にとって家族は、反面教師でした。
だから教育学部で、「良い教師である前に、良い母であれ」という言葉に出会ったときは、その言葉が胸の奥深くに刻まれました。
子どもと信頼し合い、親子の絆を大切にしながら、一人ひとりの気持ちを尊重できる母親になりたい。
そんな思いを胸に、私は自分なりの子育てを一つ一つ積み重ねてきました。
子育てで私が最初に大切にしたのは、情操教育でした。
豊かな感情や思いやり、人を大切にする心、そして道徳心を育てたい。そのために私がまず思い浮かんだのが、絵本の読み聞かせでした。
絵本には、子どもが主人公と一緒に喜び、悲しみ、驚き、勇気を出すという「心の疑似体験」があります。そして、母親の声を聞きながら寄り添ってもらう時間は、子どもにとって何にも代えがたい安心感を与えてくれると思っていました。
私は、その安心感こそが、人を思いやる豊かな心の土台になると信じていたのです。
さらに絵本には、美しい言葉や豊かな表現があふれています。日常会話だけでは出会えないさまざまな言葉に触れることで、自分の気持ちを言葉で表現できるようになり、それが感情をコントロールする力にもつながるのではないかと考えていました。
だから私は、生後三か月の頃から十二歳になるまで、実に十二年間、毎日欠かさず読み聞かせを続けました。
最初は絵本から始まり、成長するにつれて物語は少しずつ長くなり、やがて『ハリー・ポッター』のような長編小説も一緒に楽しむようになりました。
実は、私は子どもの頃、親から絵本や小説を一度も読んでもらったことがありません。
だからこそ、自分が母親になったら、子どもとは同じ物語を味わい、同じ場面で笑い、驚き、感動しながら、心を通わせる時間を毎日積み重ねていきたいと思っていました。
私は、そんな時間を積み重ねることが、子どもの心を豊かに育て、親子の絆を深めることにつながると信じていました。そして、その時間は、私にとってもかけがえのない幸せな時間になりました。
読み聞かせと並んで、私が大切にしていたことがもう一つあります。
それは、読解力を育てることでした。
私は、読解力は学校の成績のためだけではなく、大人になってからも一生その子を支えてくれる力になると信じていました。
そこで、子どもが小学校へ入学すると同時に、毎日の音読に付き合うことを始めました。
国語の教科書を声に出して読み、私はその横で耳を傾けます。読み間違えたところがあれば指で示し、「もう一度読んでごらん」と声をかけ、漢字も一つひとつ教えました。
私が目標にしていたのは、小学校三年生が終わるまでに、小学校六年生までの国語の教科書をすべて読める力をつけることでした。
そのために、東京書籍と光村図書出版の国語の教科書を一年生から六年生までそろえ、上下巻すべてを三年間かけて毎日読み続けました。
決して急がせることはせず、毎日少しずつ、子どもの横に座り、一緒に積み重ねていきました。
その土台ができれば、あとは自分の力でさまざまな本を読めるようになると思っていたからです。
そして六年生になる頃には、『ハリー・ポッター』のような長編小説も、自分一人で楽しめるようになっていました。
私は、読解力は一生の財産だと思っています。
人の話を正しく理解する力、自分で考える力、情報を見極める力、困ったときに本や資料から解決策を見つけ出す力。それらはすべて読解力の上に育っていくものだと思うのです。
だから私は、小学校一年生から三年生までの三年間、二人の息子それぞれと毎日向き合い、音読に付き合い続けました。
子育てでもう一つ大切にしてきたことがあります。
それは、子ども一人ひとりの持っている力を見つけ、その子が「自分にはできることがある」と思える経験を積ませてあげることでした。
私は、自己肯定感を育てたいと思っていたのです。
努力を積み重ね、「できた」という喜びを味わうこと。その経験こそが、本当の自信につながると思っていました。
二人の息子は、同じように育てても、得意なことはまったく違っていました。
長男は器用でしたが、肩の強さや筋力には恵まれていませんでした。一方、次男は小さい頃から体が大きく、肩も強く、力強いボールを投げることができました。しかし、不器用で、新しい動きを覚えるには人一倍時間がかかる子でした。
だから私は、それぞれの子に合った方法で力を伸ばそうと考えました。
長男が小学六年生のとき、「中学校ではバレーボール部に入りたい」と話してくれました。
当時は、今とは違い、厳しい体罰指導が当たり前の時代でした。そこで私は、試合には出られなくても基本を学べる環境を探し、男女の枠を越えて特例で少女バレーボールチームに入れていただきました。
長男は一年間でレシーブ、サーブ、スパイク、ブロックなどの基本をどんどん習得し、女の子たちと一緒にチームプレー練習もできるまでに成長しました。
ところが、次男は一年たっても思うようには上達しませんでした。
レシーブをすればボールは転がっているだけ、スパイクのステップもなかなか覚えられない。人より時間が必要な子でした。
そこで私は、「この子には私が毎日付き合おう」と決めました。
少女バレーはやめ、自宅の庭で毎日練習を始めました。
レシーブのフォームを繰り返し確認し、スパイクのステップを一緒に踏み、ボールをつるして正しい打点を覚え、少しずつ動くトスへと進めていく。レシーブも、優しいボールから始め、少しずつ強いボールへと変えていきました。
レシーブは二十本 私の頭の位置へ返せたら、その日の練習は終わり。
スパイクは20本正しい打点でボールをしっかり、とらえることが出来れば終わり。
そんな毎日を三年間続けました。
さらに小学校六年生になると、私は地域の子どもたちを集めてチームをつくり、週に二回体育館で練習を行い、土曜日には練習試合へも連れて行きました。
次男の長身と強い肩は、大きな武器になると信じていたからです。
努力は少しずつ実を結び、小学生最後の一年には大会で優勝し、トロフィーを手にすることができました。
中学校では県大会で二度の準優勝を経験し、エーススパイカーとして活躍し、兵庫県のJOC選抜にも選ばれ、全国大会のコートにも立つことができました。
高校でも決っしてもって まったく強豪校ではありませんでした。
何度も何度も悔しい思いをし県大会初戦敗退もありました。しかし仲間と努力を重ね、最後の県総体でエーススパイカーとしてベスト4まで勝ち進みました。
その姿を私は、ずっと見守り続けました。
練習試合も見に行き、公式戦も、すべて応援に行きました。
私は子育てで、「褒めること」以上に大切にしてきたことがあります。
それは、子どもと一緒に喜ぶことです。
「すごいね。」と言うよりも、「私も本当にうれしいよ。」
その気持ちを、いつも大切にしてきました。
子どもが努力して得た喜びを、親子で一緒に味わい喜ぶ。
それこそが、子どもの自己肯定感を育んでくれると信じていたからです。
「虐待を受けて育った子は、自分の子どもにも虐待をする。」
そんな言葉を耳にするたび、私は胸が痛みます。
私は親から酷く心を傷つける言葉を浴びせられて育ちました。
だからこそ、「こんな親には絶対にならない」と幼い頃から決めていました。
子どもに手を上げたことは一度もありません。
暴言を浴びせたこともありません。
私にとって両親は反面教師でした。
子どもと心を通わせ、ともに歩み、ともに喜び合える親でありたい。
その思いだけは、子育ての間、一度も変わることはありませんでした。
子育ては 私にとって生きがいでした。
そして、子どもを育てることで一番育てられたのは、私自身の愛情だったのかもしれません。