メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【 重史 38 】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【 重史 038】 『信長公記』 

    ←はじめに ←目次 ←【 重要史料 】 ← 
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
    →その一因 目次大 目次中 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【 人物 】 
    *加筆修正 

    【 重史 038】

    ①五月十四日、

     江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。

    ②同日に、

     三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば、御立ち寄り、

                          『信長公記』

    【 重史 037】←

     天正十年1582、五月十四日。
     家康は、番場に到着した。
     安土の手前、凡そ七里28km(滋賀県米原市番場)。
     丹羽長秀が、仮御殿を用意して、接待にあたった。
     
      五月十四日、江州の内、ばんばまで、家康公・穴山梅雪、御出でなり。
      惟住五郎左衛門、
      ばんばに仮殿を立ておき、雑掌を構へ(酒肴の支度をととのえ)、
      一宿、振舞い申さるゝ。

     同日。
     信忠も、番場に到着した。
     信忠は、暫し休息した後、そのまま安土へ向かった。
     
      同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、
      ばんば、御立ち寄り、暫時、御休息のところ、
      惟住五郎左衛門、一献進上侯なり。
      其の日、安土まで御通侯ひキ。
                              (『信長公記』)
                              →【 重史 039】


     【引用】【重史226】



     ⇒ 次へつづく
     
     


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ