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本能寺の変1582 第179話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    第179話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 

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    光秀は、前波吉継を知っていた。

     元亀三年1572、七月。
     光秀は、近江の戦場にいた。
     遅くとも、その時。
     否、おそらく、それよりもずっと前から、・・・・・。

      七月十九日、信長公の嫡男奇妙(信忠)公、御具足初めに、
      信長、御同心なされ、御父子、江北表に至りて御馬を出だされ、
      (中略)
      
     
      七月廿四日、草野の谷(滋賀県長浜市野瀬町)、是れ又、放火候。
      (中略)

     光秀は、水軍を率いて海上から浅井方を攻撃した。
     囲船(かこいぶね)を寄せつけ、火矢・大筒・鉄炮で攻めたとある。
     
      海上は、打下(うちおろし)の林与次左衛門・
      明智十兵衛・堅田の猪飼野甚介・山岡玉林・馬場孫二郎・
      居初又二郎に仰せつけられ、
      囲舟を拵(こしら)へ、海津浦・塩津浦・与語の入海(いりうみ)、
      江北の敵地、焼き払ふ。 
      竹生島へ舟を寄せ、火屋・大筒・鉄炮を以て攻められ候。
      
                (『信長公記』元亀三年七月十九~二十四日条)

    前波吉継は、朝倉義景を裏切った人物。

     そして、八月。
     吉継、離反。
     信長に、投降した。 
     
      八月八日に、越前の前波九郎兵衛父子三人、此の御陣へ参ぜられ候。
      信長公、御祝着斜めならず。
      則ち、御帷(かたびら)・御小袖・御馬皆具ともに拝領申され候。
                     (『信長公記』元亀三年八月八日条)
     

     ならば、吉継が頼りとした織田方の武将は、誰か、・・・・・。
     信長に、吉継を取り次いだ人物は、誰なのか、・・・・・。
     そこに、光秀の関与があったのか、・・・・・。
     わからない。

    服部七兵衛は、前波吉継の家臣。

     同年(天正元年)、九月。
     服部七兵衛は、吉継に指図される立場だった。
     すなわち、家臣・配下。 
     以下の書状から、そのことがわかる。
      
      増長新十郎知行分、所々沽却散在地等、これを集め、
      先ず厳重に、取り沙汰有るべくの状、件の如し、

       天正元          前波播磨守
        九月十六日          長俊(花押)
         服部七兵衛尉殿
         歸山源三殿
                                (「古案」)

    前波吉継・服部七兵衛は、光秀の人脈に連なる人物。

     光秀、前波吉継、服部七兵衛。
     斯くして、三人が繋がった。
     「竹身上の儀に付きて御馳走の段」
     前もって、示し合わせていたのだろう。
     すなわち、「竹」のことを 頼むことが出来る間柄だった。

    光秀は、越前侵攻に欠くの出来ぬ人物だった。

     光秀は、越前で、長い雌伏の時代を過ごした。
     したがって、朝倉氏に関する事のみならず、諸事にも通じていた。
     信長は、光秀の、ここに、注目した。
     「越前攻めに、欠くことの出来ぬ人物」
     これが、抜擢の一因になったのではないだろうか。
     信長は、光秀を重用した。
     おそらく、相談相手のような存在だった、・・・・・。

      


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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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