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本能寺の変1582 【重史126】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史126】 『信長公記』 

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
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     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史126】 そ第11話②

    ①抑も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。

    ②五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。

    ③家門長久の処に、思はず、天魔の所為来りて、

    ④爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、

                           『信長公記』

     天正八年1580、八月二日。              158000802

     石山本願寺は、上町台地の北端部分にあった。
      上町台地は、大阪平野の中央部を、南北に、細長くのびる台地である 。

      長さは、凡そ10~11km。
      北は、大阪城公園。
      天守閣跡が、最高地点 (標高38m) 。
      公園の一角に、「石山本願寺推定地」の石碑がある。
      そこから、ゆるやかに下りつ。
      南は、住吉大社のあたりまで (標高6m) 。

      幅は、東西、凡そ2~3km。
      その先、
      西は、海へ。
      同、
      東は、しばらく、低地~平地がつづき、徐々に高度を上げながら、
      やがて、生駒の山並みに。
      すなわち、その断面は、凸型となる。

      石山本願寺から、瀬戸内海がよく見えた。
      石山本願は、この台地の、北端の、最上段にあった。
      したがって、遮るものは、何もない。
      見晴らしがいい。
      「海が見える」、のである。
      中国・四国・九州へとつづく、瀬戸内の「海」が・・・・・。

      となれば、
      石山本願寺は、西国へつづく海の玄関口。
      そう、いうことなる。
      これこそ、信長の望むところ。

      信長は、大いに気に入っていた。
      そう、思う。

      太田牛一は、その立地を絶賛している 。
      以下、「日本一の境地」「舟の通ひ」「大河の流れ」「滄海漫々」
      「唐土・高麗・南蛮の舟」「五畿七道」「売買利潤」「富貴の湊」
      「甍を並べ」「福裕の煙」等々、褒め言葉が並ぶ。

      大坂は、日本で最も繫栄し、豊かなところ。

       抑(そもそ)も、
       大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
       其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、

       殊更、
       淀・鳥羽より、大坂城戸口(きどぐち)まで、
       舟の通ひ直(すなお)にして、
       四方に節所を拘(かか)へ、

       北は、
       賀茂川・白川・桂川・淀・宇治の大河の流れ、幾重ともなく、
       二里、三里の内、中津川・吹田川・江口川・神崎川、引き廻し、

       東南は、
       尼上ケ嵩(たけ)・立田山・生駒山・飯盛山の、
       遠山の、景気を見送り、
       麓は、
       道明寺川・大和川の流れに新ひらき淵、立田の谷水、流れ合ひ、
       大坂の腰まで、三里四里の間、
       江と川と、つゞひて、渺々(びょうびょう)と、引きまはし(果てしなく
       広がり)、

       西は、
       滄海漫々として、日本の地は申すに及ばず、
       唐土・高麗・南蛮の舟、海上に出入り、

       五畿七道こゝに集まり、
       売買利潤、富貴の湊なり。

       隣国の門家、馳せ集まり、加賀国より城作りを召し寄せ、
       方八町に相構へ、真中に高き地形あり。

       爰(ここ)に、一派水上の御堂をこう々々と建立し、
       前には、池水を湛(たた)へ、一蓮託生の蓮を生じ、
       後には、弘誓(ぐぜい)の舟うかべ、仏前に光明を輝やかし、
       利剣即是の名号は、煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家(ざい
       け)を立て、
       甍(いらか)を並べ、軒を継ぎ、福裕の煙厚く、
       遍(ひとえ)に、此の法を尊み、
       遠国波島より、日夜朝暮、仏詣の輩、道に絶えず。
                               (『信長公記』)

      石山本願寺は、信長の軍門に下った。

       家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
       信長公、一年、野田・福島御詰め候を (元亀元年1570) 、

       (本願寺は)落去候ては、大坂手前の儀と存知、
       長袖の身ながら、一揆蜂起せしめ、

       (信長は)通路、直(すなお)ならざるの処、
       其の時、野田・福島の御人数、御引き取り候ひキ(撤退させた)。

       (信長は)其の遺恨おぼしめし忘れられざるの故か。
       既に、五ケ年以前の夏 (天正四年1576) 、
       当寺、参詣の輩(ともがら)を推し止められ、

       剰(あまつさ)へ、
       御敵を一分に捕へ、諸口を取り詰め、
       天王寺に至つて、
       原田備中(直政に)、相(あい)、城を申し付けられ候(築城を命じた)。

       (本願寺は)御普請、首尾なき以前(出来上がる前に)と存じ、
       即時に、一揆を催し、天王寺へ差し懸け、一戦を遂げ、
       原田備中・塙喜三郎・塙小七郎・簑浦無右衛門を初めとして、
       歴々討ち捕り、其の競ひに天王寺とり巻き候ところ、

       信長、御後詰として、無勢を以て御動座なさる。
       其の日、両度、御合戦に及ばれ、
       両度ながら、
       大坂、合戦に打ち負け、数多討死させ、
       誠に、大軍を以て、小敵の擒(とりこ)となる事、無念の次第なり。

       併(しか)しながら、
       末法の時到つて 、
       修羅闘諍(しゅらとうじょう)の瞋恚(しんい)を発し、
        =信長との戦いに、闘争心が激しく燃え上がり

       カ及ばずながら、
       大坂も、
       こう津・丸山・ひろ芝・正山を始めとして、
       端城、五十一ケ所申し付け、楯籠り、
       構への内にて、五万石所務致し、

       運を天道に任せ、
       五ケ年の間 、時節を相守ると雖も、
        =天正四年1576~天正八年1580の五年間、守り通して来た
         けれども

       身方は、日々に衰へ、調儀・調略、相叶はず。

       信長、御威光、盛んにして、諸国七道、御無事なり。

       此の上は、勅命と云ひ、御道理は違はずと云ひ、
       退城仕るべきと、肯じ申し候。  
                               (『信長公記』)

      創山以来、四十九年にして、この地を去る。

       爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
       昨日の夢のごとく、
       世間の事相を観ずるに、生死の去来、
       有為転変(ういてんぺん)の作法は、電光朝露のごとく、
       唯、一声、称念の利剣(=念仏を唱えること)、
       此の功徳(くどく)を以て、
       無為涅槃(むいねはん)の都(=あの世)に至らんにはしかじ。

       然りと雖も、今、故郷離散の思ひ、上下已(すで)に涙に沈む。
                               (『信長公記』)

      信長は、石山本願寺に入城するつもりだった。

       然うして、大坂退城の後、
       頓(やが)て、信長公、御成りあつて、此の所、御見物なさるべく、
       其の意を存知、端々、普請掃除申しつけ、
       面(おもて)には弓・鎗・鉄炮等の兵具、其の員(かず)を懸け並べ、
       内には資財雑具を改め、あるべき躰(てい)を結構に飾り置き、
       御勅使、御奉行衆へ相渡し、
                               (『信長公記』)


      【引用】 そ第11話②



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