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本能寺の変1582 重要 ◎第113話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    重要 ◎第113話 

    信長の甲斐侵攻 4勝頼の首 2/3 

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     112 ◎ 113 ◎ 114 ◎ 
    *加筆修正 

    ◎越中で、一揆が蜂起した。

     信長の甲斐侵攻に関連して起きた事件である。
     これにより、織田方の、神保長住の富山城が占拠された。

      さる程に、越中国富山の城に、神保越中守居城侯。

      然るに、今度、信長公御父子、信州表に至りて御動座侯のところ、

     勝頼が、そそのかしたと云う。
     長住は、捕らえられ幽閉された。

      武田四郎、
      節所を拘(かか)へ一戦を遂げ、悉く討ち果し侯の聞、
      此の競(きお)ひに、越中国も一揆蜂起せしめ、
      其の国、存分に申しつけ(支配)侯へと、
      有り々々と(さも本当らしく)、越中へ偽り申し遣はし侯。

      事実に心得、小島六郎左衛門・加老戸式部両人、一揆大将に罷りなり、
      神保越中を城内へ押し籠め、
      三月十一日、富山の城居取りに仕り、近辺に煙を挙げ侯。

    ◎柴田勝家が富山城を包囲した。

     勝家は、、北国軍の総司令官である。
     即刻、対応。
     信長へ、戦況を報せた。

      時日を移さず、
      柴田修理亮・佐々内蔵介・前田又左衛門・佐久間玄蕃頭、
      此等の衆として、富山の一揆の城取り巻き候間、
      落去、幾程もあるべからずの旨、注進申し上げられ候。
                              (『信長公記』)

    ◎信長は、岩村から国境を越えて信濃に入った。

     同三月十三日。
     「険難節所」
     険しい山中路を越えた。
     この日は、禰羽根(長野県下伊那郡根羽村)泊。

      三月十三日、信長公、岩村より禰羽根まで御陣を移さる。

    ◎信長は、勝家に、武田の滅亡を知らせた。

     同日。
     信長は、朱印状を送った。
     宛先は、北国軍の四将。
     柴田勝家・佐々成政・前田利家・不破直光。
     「駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せつけられ侯」
     
    彼らにとっては、大きな刺激。
     さぞや、奮起したことだろう。

      信長公御返書の趣、

      武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣竿を初め、
      家老の者、悉く、討ち果たし、
      駿・甲・信、滞りなく一篇に仰せつけられ侯間、
      機遣(きづかい)あるべからず侯。
      飛脚(信忠からの書状)、見及び候間、申し達す(伝える)べく侯。
      其の表(越中)の事、是れ又、存分たるべき(存分に対処すべき)事、
      勿論なり。

        三月十三日                (朱印)
          柴田修理亮殿、
          佐々内蔵介殿、
          前田又左衛門殿、
          不破彦三殿、
                              (『信長公記』)



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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