メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変 1582 信長の台頭 2 253 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    信長の台頭 2 尾張統一 

    岩倉方は、戦意を失っていた。

     浮野での大敗が尾を引いていたのだろう。
     兵力が激減していたようである。
     
      越訴(おつそ=訴訟)拘へ難きに付いて
      (これ以上、支えることは出来ないと判断して)、

    信長は、岩倉城を攻略した。

     城主織田信賢は、城を捨て逃亡した。
     信長は、これを追わず。
     同城を破却し、清州に帰城した。
     
      渡し進上侯て、ちりぢり、思ひ々々罷り退き、 
      其の後、岩倉の城破却させられ侯て、清洲に至つて御居城侯なり。
                              (『信長公記』) 

    尾張統一、成る。

     斯くして、信長は、下四郡・上四郡を手に入れた。
     ここに、尾張の統一成る。
     これが、永禄元年終り頃の状況。

     とすれば、翌二年の上洛目的は、
     表向き、義輝に対する祝意言上。
     その実は、統一の報告。
     すなわち、尾張の支配の認知させ、大義名分を得ることとなる。
     こちらの方がスッキリする。 

     美濃の斎藤義龍は、尾張の協力者を立て続けに失った。
     それ故か。
     永禄二年は、大きな戦いが見当たらない。

     となれば、次は、東方、今川義元。
     三河となる。
     信長は、忙しい。

    尾張は、豊かな国である。

     近隣諸国の石高である。
     すなわち、国力。

       甲斐  22万7千石
       信濃  40万8千石
       越後  39万石
       越中  38万石
       越前  49万1千石  

       駿河  15万石
       遠江  25万5千石
       三河  29万石

       美濃  54万石 
       尾張  57万2千石
       伊勢  56万7千石
                    (「当代記」より) 


              ⇒ 次回へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ