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本能寺の変1582 【重史133】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史133】 「御湯殿上の日記」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史133】 そ第11話㊺

    ①のふなか、のほりて

    ②御しゆりみまい、まいらせ候とてまいり

    ③なかはしにて、てんはいの御さか月たふ。

                        「御湯殿上の日記」


     永禄十二年1569、十月十三日。
               156901013

     信長は、参内した。
     同十三日
     信長は、天盃を授与された。
     御礼として、太刀と三千疋(30貫)を進上。

      十三日。
      のふなか、のほりて。
      御しゆりみまい(修理見舞)、まいらせ候とてまいり。
      なかはしにて、てんはいの御さか月たふ。
      なかはし、御しやくにてたふ。
      おとこたちは、みな々々、しこうなり。
      かたしけなきとて。
      御たち。
      三千疋しん上申。
      御つかい、あすか井中納言。
      なかはしのわたくしへも、御みやまいらせ候よし御申あり。
                            (「御湯殿上の日記」)


     【引用】 そ第11話㊺



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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