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本能寺の変1582 【重史119】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史119】 「言継卿記」 

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史119】 そ第11話㊲

    ①只今、下山の間、麓に相待つべし、

    ②然れば、老足と云ひ、極暑と云ひ、

    ③三川の調わざる時は、信長、一、二萬疋は、進上すべきの由、

    ④日乗上人・明智十兵衛方へ、申上の間、

                           「言継卿記」

     永禄十二年1569、七月十二日。

     信長は、山を下りた。
     七月十二日(永禄十二年1569)
     武井夕庵より、報せあり。
     信長が、山を下りる。
     言継に会うために。

      十二日、甲申(きのえさる)、天晴、午時小雨灌ぐ、今日より十方暮、
      一条殿に於いて、朝飡、御相伴しおわんぬ、
      軈(やが)て、旅宿に帰りおわんぬ、

      午時、夕庵より使い、これ有り、
      只今、下山の間、麓に相待つべし、
      路地に於いて、見参すべきの由、これ有り、

     信長は、山下の屋敷で山科言継に会った。
     「対面」、とある。
     信長、三十六歳(天分三年1534生)。
     言継、六十三歳(永正四年1507生)。
     信長の人物像が、垣間見れる場面である。

      用意せしめ、罷り向かうのところ、遅れるの由、これ有り、
      明日、来るべきの由有るの間、帰宅のところ、
      又、早々、来るべきの由、これ有り、
      夕庵宅に相待ち、同道せしめ、麓の屋敷へ罷り向かう、

      弾正忠、出合われ、
      予、宮笥(みやげ)、樽代五十疋、扇五本、金一・同小扇一・泥絵二・
      砂〃一、これを遣わし、対面、

     信長は、「老足」=老人である言継の下向に驚いた。
     「仰天」、「老足」、「極暑」、とある。
     老人に、優しいのである。
     これが、信長。

      予、下向の由、聞き、仰天の由、申され、
      然れば、老足と云ひ、極暑と云ひ、

     三河の徳川について。
     信長は、年老いた言継に対して、
     差し支えなければ、自分が、使者を派して、用を足してやるから、
     「老足」で、わざわざ、三河まで、行く必要はない、
     と言っている。 

      又、三川徳川は、駿州堺(境)に有るの間、別の用これ無くば、
      罷り下る事、無用の由、申され、
      信長、飛脚を以って、申し調(ととの)うべく候間、
      爰(ここ)に逗留すべきの由、なり、

      内々、夕庵を以って申さるゝは、
      三川の調わざる時は、信長、一、二萬疋は、進上すべきの由、
      申さるゝと云々、

      軈(やが)て、帰宅せしめおわんぬ、

     言継は、秀吉にも会っている。
     言継の人脈は、広い。

      次、夕庵に、扇三本、金一・泥絵二、樽代二十疋、これを遣わす、

      木下藤吉に、同扇三本、これを遣わす、

     一条内基は、織田信広のルートを用いた。
     
    その後、言継は、一条内基を訪ねた。
     そこに、「織田三郎五郎(信広)」と「一の御姉かぎ屋の御所、御比丘尼」
     が、参上。
     彼らが、信長への仲介者なのだろう。
     上手くいったようである。

      一条殿へ参る、
      御公事の儀、信長、申さるゝ様體、聞かるゝの間、
      御物語申し候ひおわんぬ、

      次、織田三郎五郎参られ、御盃、参る、

      一の御姉かぎ屋の御所、御比丘尼、御見参、
      御酒しおわんぬ、

      次、又、晩飡、御相伴しおわんぬ、

     織田信広は、信秀の長男。                【 人物 】
     信長の異母兄である。
     生年は、不詳。
     娘が、丹羽長秀の妻という。
     とすれば、信長とは、相応の年齢差があった・・・・・。
     弘治二年1556、斎藤義龍に通じた前歴がある。
     以後、改心し、この頃は、京との関係が濃密だった。
     信長の兄という立場上、公家との交流も多かったのだろう。
     天正二年1574、長島攻めで、討死す。

     「一の御姉かぎ屋の御所」については、よくわからない。

     ここで、明智十兵衛の名が、「言継卿記」に、初めて登場する。
     ようやく、言継が、光秀のフルネームを知ったことになる。

      一条殿、御公事の儀、堅く、書状、相調(ととの)え、
      日乗上人・明智十兵衛方へ、申上の間、
      軈(やが)て、御上洛有るべくの由、これ申す、

      仍って、御祝着の礼に、御出で、
      但し、暮れ過ぎの間、明日、然るべきの由、申し来し、
      路地より、御帰りしおわんぬ、

      予、同、帰宅しおわんぬ、
                               (「言継卿記」)

     【引用】 そ第11話㊲



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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