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本能寺の変1582 第62話 9光秀という男 6長井新左衛門 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    第62話 9光秀という男 6長井新左衛門 

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    1500年代、初期。

     将軍は、11代義澄・10代義稙(義材改め)・12代義晴の時代。
     土岐氏は、政房―頼武―頼芸の代。

    細川政元が殺害された(永正の錯乱)。

     永正四年1507。
     湯殿に入っているところを襲われたという。

     政元は、修験道を信仰し、女人を近づけなかった。
     それ故、子はいない。
     そのため、三人の養子を迎えていた。
     このことが、新たな争いの火種となる(両細川の乱)。
     その結果、京兆家は、急激に力を失っていく。

    足利義稙が将軍に就任した(再任)。

     義材は、流浪中、→義尹→義稙と改名している。

     永正五年1508。
     大内義興に支援され、上洛。
     将軍に復帰した。
     
     足利義澄は、近江へ逃げた。

    美濃は、戦国時代の真っ只中にあった。

     下剋上が罷り通る時代である。
     権力の主体は、守護から守護代へ。
     さらに下って、小守護代へ。
     そして、さらに下る。

    土岐政房は、後継者の問題を抱えていた。

     嫡男頼武と二男頼芸。

    守護代は、斎藤利良。

     利良(としなが)は、持是院家の当主。
     妙純の直孫にあたる。

    斎藤氏は、かつての勢いを失っていた。

     妙純は、戦死した。

    小守護代は、長井長弘。

     長井氏は、斎藤氏の宿老。
     この間隙を縫って、勢力を拡大した。
     この頃は、すでに、主家に拮抗する力を有していた。

    長井新左衛門がこれを補佐していた(道三の父)。

     この新左衛門が道三の父である。

     元々は、京都妙覚寺の僧侶だった。
     旧姓、西村。
     長井氏に仕え、引き立てられ、その姓を拝領した。
     長井氏のナンバー2である。

     六角承禎が家臣に宛てた書状に、その事実を示す記載がある。

      一、彼の斎治(斎藤治部大輔義龍)身上の儀、
        祖父新左衛門慰は、京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、
        長井弥二郎(長弘)の所へ罷り出で、
        濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、
        長井同名になり、
        (「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条1/2)

     ⇒ 次へつづく 第63話 9光秀という男 7美濃の争乱





     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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