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本能寺の変1582 第94話 13上総介信長 2富田聖徳寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    第94話 13上総介信長 2富田聖徳寺 

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    平手政秀が自害した。 

     天文22年1553。
     
    閏一月十三日。

      十三日、
      織田信長、其の傅(もり)平手政秀の諫を用ひず、是日、政秀、自殺す、
                              (「史料綜覧」)

     確かな理由は、わからぬ。
     当時、信長と政秀の嫡男五郎右衛門との間に、「馬」をめぐって 
     確執があった。

      一、平手中務丞が子息、一男五郎右衛門・二男監物・三男甚左衛門
        (汎秀)とて、兄弟三人これあり。

        総領の平手五郎右衛門、能き駿馬を所持侯。
        三郎信長公、御所望侯ところ、
        にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免侯へと申し侯て、
        進上申さず候。
        信長公、御遺恨浅からず、
        度々、おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。

    信長は、「上総介」を称していた。

     「自官」、とある。
     自称していた。

      三郎信長公は、上総介信長と自官に任ぜられ侯なり。

     太田牛一は、政秀の死を、信長のうつけぶりを改めさせるための
     「諌死」であった、と述べている。

      一、さる程に、平手中務丞、
        上総介信長公、実目(じちめ=まじめ)に御座なき様体をくやみ、
        守り立て験(げん)なく侯へば、存命侯ても、詮なき事、
        と申し侯て、
        腹を切り、相果て侯。

                               (『信長公記』)

    信長は、政秀寺を建立した。

     政秀寺は、現存する(愛知県名古屋市中区栄3丁目)。
     寺歴については、以下の通り。

    政秀寺の歴史

      臨済宗妙心寺派の寺院、瑞雲山と号す。
      天文22年(1553)、織田信長が、自分の素行不良をなげいて
      諌死した平手政秀の菩堤を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村
      に創建し、沢彦和尚を開山とした。

      寺は天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いで焼失。その翌年
      清須に再興され、慶長15年(1610)清須越で現在地に移設され
      た。

      本尊は木造十一面観世音菩薩坐像である。政秀の墓はかつて本寺に
      あったが、今は名古屋市の平和公園内政秀寺墓地に移されている。
                          (政秀寺ホームページより)

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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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