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本能寺の変 1582 上総介信長 1 178 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    上総介信長 1 信秀の死 

    葬儀は、万松寺で執り行われた。

     信秀の葬儀は、曹洞宗、亀岳林・万松寺で盛大に執り行われた。
     寺は、那古野城の南半里にある。
     信秀が、織田家の菩提寺として建立した寺であった。
     
      去(さ)て、一院御建立、万松寺と号す。
      当寺の東堂(=前住職)、桃巌と名付けて、銭施行をひかせられ、
      国中の僧衆集いて、生便敷(おびただしき)御弔いなり。
      折節、関東上下の会下(えげ=修行)僧達、余多これあり。
      僧衆、三百人ばかりこれあり。
     
      三郎信長公、林・平手・青山・内藤、家老の衆、御伴なり。

      御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六・佐久間大学・佐久間次右衛門・
      長谷川・山田以下、御供なり。                          

    信長は、仏前へ抹香を投げつけた。

     これが信長流。
     名場面である。
     
      信長、御焼香に御出で。
      其の時の信長公、御仕立、
      長つかの大刀、わきざしを三五(みご)なわにてまかせられ、
      髪はちやせんに巻き立て、袴(はかま)もめし侯はで、
      仏前へ御出でありて、
      抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰り。

     信勝は、品行方正。
     
      御舎弟勘十郎は、折目高なる肩衣、袴めし侯て、
      あるべき如きの御沙汰なり。

     信長は、「大うつけ」。
     
      三郎信長公を、例の大うつけよと、執々(とりどり)評判侯ひしなり。
      其の中に、筑紫の客僧一人、
      あれこそ、国は持つ人よと、申したる由なり。

                               (『信長公記』)


              ⇒ 次回へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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