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本能寺の変1582 【重史155】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史155】 「兼見卿記」 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史155】 そ第11⑩03

    ①右府信長、御上洛の由、申すの間、

    ②山科に至り罷り出で、数刻相待つ、

    ③御迎え、各、無用の由、仰せなり、

                           「兼見卿記」


     天正八年1580、七月十四日。
                158000714

      信長が、上洛した。
      陸上ルートにて。   

       十四日、壬(みずのえ)午(うま)、
       右府信長、御上洛の由、申すの間、
       御迎えのため、山科に至り罷り出で、数刻相待つ、
       村井作右(貞成)衛門慰、先へ罷り皈(かえ)り、云く、
       御迎え、各、無用の由、仰せなり、
       早々に、罷り皈るべしの由、堅く申さるゝの間、各、皈るなり、
                               (「兼見卿記」)
      
      光秀は、京にいた。

      「主君の上洛」
      身は、一つ。
      七月十四日~末日。
      この間、光秀は、京にいた。
               →そ第11話⑦~そ第11話⑧ 七月二日~七月二十日

      以下、十四日・二十三日・某日の記述は、その間のもの。
                                →そ第11⑩03
      
      そして、八月、丹後へ。

      となれば、この間しかない。

      光秀は、丹波を拝領した。

      同、細川藤孝は、丹後を。


     【引用】 そ第11⑩03 そ第11話⑦



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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