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本能寺の変1582 【重史48】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史048】 『信長公記』 

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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史048】

    ①三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、

    ②高遠の城は、三方さがしき山城にて、

                           『信長公記』

     天正十年三月一日
     信忠は、飯島から、天竜川を渡り、貝沼原まで進出した(長野県伊那市富県
     貝沼)。
     
      三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、
      天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てられ、
      松尾ノ城主小笠原掃部大輔(かもんのたいゆう)を案内者として、
      河尻与兵衛・毛利河内守・団平八・森勝蔵、足軽に御先へ遣はされ、
     
     信忠は、山の上から高遠城の様子を窺った。
     
      中将信忠卿は、御ほろの衆、十人ばかり召し列れ、
      仁科五郎、楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上(のぼ)させ
      られ、
      御敵城の振舞の様子、御見下墨(みさげすみ)なされ、
      其の日は、かいぬま原に御陣取。
     
      高遠の城は、三方さがしき山城にて、うしろは、尾続きあり。
      城の麓、西より北へ、富士川たぎつて流れ、
      城の拵(こしらえ)、殊に、大夫なり。
      在所へ、入口三町ばかりの間、下は大河、上は大山そわづたひ、
      一騎打ち節所の道なり。
                               (『信長公記』)
     
     
     【引用】◎第5話



     ⇒ 次へつづく
     

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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