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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 2 159 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    斎藤道三の下剋上 2 光秀と長宗我部元親 

    土佐に、長宗我部元親が生まれた。

     同、天文八年(1539)
     四国、土佐。
     長岡郡岡豊城にて。
     長宗我部国親に、嫡男元親が誕生した。
     幼名、弥三郎。
     後、宮内少輔を称す。
     信長より、五つ年下である。

    元親は、光秀を仲介者として信長に誼を通じた。

     後年のことである。
     それ故、光秀との関係が深い。

    元親と本能寺の変。

     その一因となった。

     これらについては、後述する。

    長宗我部氏の先祖について。

     長宗我部氏は、秦の始皇帝の末裔であると云う。
     渡来人秦氏の流れを汲む一族とされる。
     
      抑(そもそ)も、長曽我部宮内少輔秦元親卿の系図、家の根源は、
      元祖太唐人、秦始皇六代孫の流れなり、
      日本に渡海し、初めは信濃の国に住す、
      この人、文に達し、武に勝る、
      連々、叡聞あり(天皇がお聞きになった)、
      人王十四代仲哀天皇の御宇(=御代)、召されて上洛せしむ、
      詔(みことのり)あり、大学寮、先ず儒才を試され、作文を献策す、
      尤も叡感あり(天皇がお褒めになった) 、
      此の時、秦氏を号されおわんぬ、

     
     聖徳太子(574~622)の時代。
     秦川勝の子孫が土佐に移り住んだ。  

      爾(=それ)以後、聖徳太子、守屋(物部)逆臣を誅罸し、
      仏法を広めんと欲し、海内(かいだい=天下)を給はんとせし時、
      厥(その)十五代末孫秦川勝大臣広隆、一方の大将軍なり、
      その末葉、当国の国司を賜ふ、
      則ち、長宗我部領、江村郷・廿枝郷・野田・大埇・吉原、
      都合三千貫領地すべき旨、頂戴し、輪(綸)旨・御盃を給ふ、

                               (「元親記」) 


              ⇒ 次回へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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