メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史156】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史156】 「明智光秀史料で読む戦国史」 

    はじめに ←目次 ←【重要史料】 【重史一覧】 ←  
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史156】 そ第11⑩03

    ①聊(いささ)かも難渋せしむれば、成敗を加ふべき者なり、

    ②天正八年七月廿三日 光秀 加茂ノ庄惣中

                   「明智光秀史料で読む戦国史」


     天正八年1580、七月二十三日。
                158000723

      光秀は、南山城の支配権を有していた。
      以下は、同加茂ノ庄への下知書(京都府木津川市加茂町)。

       当所の事、両代官の下代として、
       中新左衛門・観音寺・西三郎に申し付くる上は、
       年貢諸成物等、両三人に納所すべし、
       若し、聊(いささ)かも難渋せしむれば、成敗を加ふべき者なり、

         天正八年七月廿三日         光秀
           加茂ノ庄
               惣中
                       (「明智光秀史料で読む戦国史」)


     【引用】 そ第11⑩03



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ