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本能寺の変1582 重要 ◎第56話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    重要 ◎第56話① 

    9光秀という男 3土岐氏 2/4 

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     55 ◎ 56 ◎ 57 ◎ 58 ◎ 
    *以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
    *加筆修正 

    土岐頼遠は、足利尊氏の時代の人物である。

     足利尊氏は、室町幕府の初代将軍。
     鎌倉時代末期~室町時代初期(南北朝時代)の人。
     1305年(嘉元三年)生れ~1358年(延文三年)没。 

    室町時代は、この尊氏から始まった。

     以下、尊氏の略歴を示す。

     1333年 元弘三年/正慶二年
      後醍醐天皇の倒幕に呼応。
      鎌倉幕府を滅ぼした。
      執権北条高時、自害。
      建武の新政が始まった。

     1335年 建武二年
      中先代の乱。
      北条時行(高時の子)が挙兵した。
      後醍醐天皇と対立。

     1336年 延元元年/建武三年
      尊氏、入京。
      後醍醐天皇は、比叡山へ逃がれた。
      北畠顕家により、九州へ駆逐された。
      湊川の戦いで、勝利。
      再び、上洛。
      後醍醐天皇は、比叡山へ逃がれた。
      光明天皇が即位、北朝が成立した。
      建武式目を定める。  
      後醍醐天皇は、吉野へ逃れた。
      南北朝時代が始まった。
       → 1392年(元中九年/明徳三年)までつづく。 

     1338年 延元三年/建武五年
      南朝軍、和泉国石津(大阪府堺市)で大敗。
      尊氏、征夷大将軍に就任。

     1350年 正平五年/観応元年
      観応の擾乱が起きた。
      弟直義と高師直の間の政治闘争である。
       → 1352年、正平七年/観応三年までつづく。

    頼遠は、婆娑羅大名。

     土岐頼貞の第七子。
     生年不詳~康永元年(1342年)没。
     足利尊氏・直義兄弟に従い、数々の合戦で活躍した。
     歴戦の勇者である。
     暦応二年(1339年)、父頼貞、死去。
     兄が早世していたため、頼遠が家督を継ぎ、美濃守護となった。
     典型的な婆娑羅大名の一人。
     康永元年(1342年)、光厳上皇の行列に行き会った際、その牛車に
     矢を射かけるという狼藉を働いた。
     その時、つぎの様に言ったという。
     「何々、院(INN)と云うか、犬(INU)と云うか、犬ならば射ておけ」
     有名な言葉である。
     しかし、このことが露見し、同年暮れ、六条河原で刎首(ふんしゅ)され
     た。



     ⇒ 次へつづく

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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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