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本能寺の変1852 その一因 一、光秀の年齢 そ小68 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    その一因 一、光秀の年齢 そ小68 

    2光秀の年齢 1三人の娘 

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    →【 重要史料 】 【 人物 】  
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    *加筆修正 

    そ小68 そ第68話

     【参照】 ←テ第68話 ←◎第68話 ←第68話

    1光秀は、高齢だった。
     天正十年1582、三月。
     この時、すでに五十歳を越えていたものと思う。

     信長は、四十九歳。
     
    これが、一つの基準となる。
     それより、年上なのか、年下なのか。
     年上ならば、五十歳以上になる。

    2光秀には、三人の娘がいた。

     光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。            【 人物 】
     忠興は、藤孝の嫡男。
     永禄六年1563の生れ。
     天正二年1574。
     信長の命により婚約が成立した。
     忠興と、同年という。
     後の細川ガラシャである (「綿考輯録」) 。
     天正六年1578。
     二人は、結婚した。
     ともに、十六歳 (「綿考輯録」) 。

     光秀の長女*は、織田信澄へ嫁いだ。
     信澄は、永禄元年1558の生れ。
     信長のすぐ下の弟信勝の遺児。
     近江高島城主。
     高島郡は、光秀の志賀郡に北接している。 

     光秀の二女*は、荒木村次へ嫁いだ。
     
    村次の生没年は、不詳。
     この女性は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された
     (「立入左京亮入道隆佐記」) 。
     後、明智秀満に再嫁。

     *長女と二女は、入れ替わる可能性あり。

    3父親たちの生年と年齢。

     細川藤孝は、四十九歳。
     天文三年1534の生れ。
     信長と同年である。

     光秀は、五十歳以上である。
     藤孝の嫡男と光秀の三女の婚姻。
     このことから、光秀は、藤孝より、年上である。
     すなわち、五十歳以上。
     このあたりが、下限の目安となる。

     織田信勝は、死没。
     
    生年は、不詳。
     信長のすぐ下の弟である。
     天文四~五年(1535~1536)頃の生れか。
     永禄元年1558、没。
     生きていれば、四十七~八歳くらいだろう。

     荒木村重は、四十八歳。
     天文四年1535の生れ。
     信長の一つ下。
     この頃は、毛利に庇護されていた。

     光秀は、荒木村重と深い関係にあった。
     以下、村重の略歴を示す。



     ⇒ 次へつづく


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