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本能寺の変 1582 信長の台頭 8 308 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    信長の台頭 8 三好の衰退 

    長慶は、義継を後継者に定めた。

     三好義継は、十河一存の子である。
     天文十八年(1549)の生れ。
     この年、十五歳。
     長慶は、伯父にあたる。
     その養子となり、義興没後の宗家を承継した。
      
      長慶は、家督相続の子なくして、
      十川一存の子息熊王と申しけるを養子として、家督を定めらるゝ、
      元服の後に、三好左京大夫義次と申すは、是れなり、

    松永久秀と三好三人衆。

    この両者が三好宗家の実力者であった。

     三好氏は、次の二系統に分かれていた。
      ・三好宗家 =兄、長慶の家
      ・阿波三好家=弟、実休の家
     久秀も、三人衆も、長慶の家臣である。 

    やがて、権力闘争が始まる。

     老獪な久秀と三人衆である。
     若い義継にとって、彼らを制御するのは、きわめて難しいことだった。
     やがて、内紛。
     権力争奪戦の渦の中へ。
     義継は、両者に、翻弄される。

      三好家の政道、専ら、松永と三人衆のままなり、
      勅命をも恐れず、
      武命をも用いず、
      雅意(=自分勝手)にまかせけり、
                             (「足利季世記」)
      

    三好氏は、衰亡へ向かって歩み始めた。

     天正元年(1573)、三好義継、自害。
     その、十年前のことである。

     これらについては、後述する。 


              ⇒ 次回へつづく


     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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