メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 第72話 11光秀の年齢 3土岐の随分衆 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    第72話 11光秀の年齢 3土岐の随分衆 

    ←はじめに ←目次 ←前回 第71話 

    光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。

     頼武と頼芸。
     守護の座をめぐる兄弟の戦い。
     光秀の明智氏は、頼武派。
     長井新左衛門と若き日の道三、父子は、頼芸派だった。

     とすれば、明智氏は道三と敵対関係にあった、という事になる。

       【参照】9光秀という男 2立入宗継の証言  53   54   
       【参照】9光秀という男 7美濃の争乱    63   64   

    光秀は、土岐頼純の家臣。

     頼武の後を継いだのが頼純である。
     おそらく、光秀は、その家臣だった。

    斎藤道三による下剋上が始まった。

     天文年間は、元年1532~二十三年1554まで。

     天文二年1533。
     父、長井新左衛門、死去。
     道三がその後を継いだ。

    頼純は、道三に殺害された。

     天文十六年1547のことである。

     六角承禎がそれを証言している(一部抜粋)。

      また、父左近大夫(道三)、代々惣領(長井氏)成るを討ち殺し、
      諸職を奪い取り、

      彼の者(道三)、斎藤同名に成りあか(上)り、

      剰(あまつさ)え、次郎殿(頼純)を聟(むこ)に取り、
      彼が早世候て後、舎弟八郎殿へ申し合はせ、井口へ引き寄せ、
      事に左右をよせ、生害させ申し、
      其の外の兄弟衆、或いは毒害、或いは隠害にて、
      悉(ことごと)く、相果て候、

      其の因果歴然の事、
       (「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条2/2)

     これらについては、後述する。

    光秀は、主君を失った。

     以後、牢人となる。

    光秀は、越前へ逃げた。

     光秀には、越前で暮らした時期があった。
     「長崎称念寺門前に、十ヶ年居住」、とある。
     
    称念寺は、福井県坂井市丸岡町長崎に現存する。
     光秀は、懇意にしていたらしい。
     天文十六年~永禄十一年(1547~1568)の内の10年間。
     その門前に、居住した。

      惟任方、もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、
      越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に、十ヶ年居住故、
      念珠(ねんごろ)にて、
                   (「遊行上人三十一祖京畿御修行記」)

     これについては、後述する。

    光秀は、まだ、独身だった。

     天文十六年~同二十三年(1547~1554)は、独身時代。

     そして、次へ繋がる。
     弘治年間(1555~1557)に、妻木氏を妻に迎え。
     永禄元年(1558)頃に、長女が生まれ。
     永禄六年(1563)に、三女が生れた。

    道三は、土岐頼芸を追放した。

    道三の下剋上、成る。

     天文十九年1550。
     道三は、土岐頼芸を追放した。
     頼芸は、尾張へ逃れ織田信秀を頼った。
     法華坊主の子倅が美濃一国を奪い取った。

      父土岐頼藝公、大桑(おおが)に御座侯を、
      家老の者どもに属託をとらせ(仕事を頼んで任せること)、
      大桑を追ひ出し侯。

      それより、土岐殿は、尾州へ御出で侯て、
      信長の父の織田弾正忠を憑(たの)みなされ侯。
                              (『信長公記』)




     ⇒ 次へつづく 第73話 11光秀の年齢 3土岐の随分衆 






     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ