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本能寺の変1582 【重史57】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史057】 『信長公記』 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 目次中 
     1時代の風潮 2光秀の年齢と嫡男光慶 3光秀という男 4光秀の苦悩 
     5志向の相違 +信長の油断 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正

    【重史057】 そ第158話③

    ①吉法師殿、十三の御歳、

    ②古渡の御城にて、御元服。

                           『信長公記』

     天文十五年1546
     織田信秀が古渡城を築いた。
     同、天文十五年。
     
    この頃だろう。
     
    信秀は、新たに古渡城を築いた。
     那古野城から、新城に移る。

     信長、元服。
     信長は、古渡城で元服した。
     吉法師改め、織田三郎信長を名乗る。
     十三歳の時。

      吉法師殿、十三の御歳、
      林佐渡守(秀貞)・平手中務(政秀)・青山与三右衛門・内藤勝介、
      御伴申し、
      古渡の御城にて、御元服。
      織田三郎信長と進め(=名乗)られ、御酒宴・御祝儀、斜めならず。

     信秀は、信長に那古野城を与えた。
     信秀は、元服を機に、信長に那古野城を譲った。
     両城は、ほぼ南北に位置し、その距離は一里に満たない。
     すなわち、指呼の間。
     当時は、視認できた。

     また、この時、若年の信長のために、四人の家老をつけている。

      或る時、備後守、国中、那古野へこさせられ、
      丈夫に御要害仰せ付けられ、
      嫡男、織田吉法師殿に、
      一おとな 林新五郎(秀貞)、
      二長(おとな)、平手中務丞(政秀)、
      三長、青山与三右衛門、
      四長、内藤勝介、
      是れらを相添へ、
      御台所賄(経理など)の事、平手中務。

      (信秀は)御不弁限りなく(熱田から遠くて不便だから)、
      天王坊と申す寺ヘ(亀尾天王社=現那古野神社)、御登山なされ(築城地
      選定のため)、
      那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、
      熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。
      御台所賄、山田弥右衛門なり。
                              (『信長公記』)


     【引用】第85話 そ第158話③



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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