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本能寺の変 1582 信長の台頭 9 309 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    信長の台頭 9 光秀と長宗我部元親 

    土佐の長宗我部元親が石谷光政の女と婚姻した。

     同、永禄六年。
     元親、二十五歳の夏。
     幕府奉公衆、石谷光政の娘を娶る。

       【参照】光秀と長宗我部元親 159~160
       【参照】光秀と長宗我部元親 274~276

        参考までに。    
        信長 天文三年(1534)生れ
        秀吉 天文六年(1537)生れ
        元親 天文八年(1539)生れ

      元親、縁辺の事

      永禄六年、夏、
      元親、家老の面々を召し集めて、
      我、既に、廿五歳に及ぶなり、
      妻女を求めばやと思ふは、いかに、と、宣(のたま)へば、

      家老ども、承り、
      是れは、目出度き御思慮、御家門繁昌・下民安泰の候、
      何れをか迎へさせ給はんや、と、申しければ、

      元親、美濃国、稲葉伊予守が孫、斎藤豊後守政吉*が息女*を
      娶らばや、と、宣へば、

      家臣ども、驚きたる風情にて、暫く、閉口のところに、
      中島大和、謹んで申しけるは、
      遠国よりの御縁辺、深き御了簡にて候か、
      東国は、申すに及ばず、
      阿・讃・予(阿波・讃岐・伊予)の三国に、
      大名城主、数輩、御入(=居)り候、
      是れをこそ、御縁者になされ、
      自然(=万一)の時は、御(=味)方に頼ませ給ひ候らふべし、
                              (「土佐物語」)

        *斎藤豊後守政吉 石谷頼辰・斎藤利三の父は、伊豆守利賢と
                 される。
        *息女      元親の妻は、石谷光政の娘である。
        【参照】石谷光政・頼辰父子について 303
        

              ⇒ 次回へつづく



     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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