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本能寺の変1582 【重史118】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史118】 「言継卿記」 

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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史118】 そ第11話㊱

    ①極暑の時分、老足、奇特なり、

    ②山上は、老足、大儀たるべくの間、

                         「言継卿記」

     永禄十二年1569、七月十一日。

     この時、信長は、山上にいた。
     七月十一日
     武井夕庵は、高齢者。
     疲労のため、一足先に、下山していた。

      十一日、癸未(みずのとひつじ)、天晴、
      夕庵所へ、人を遣わすのところ、
      去る夜、夜半に、下山、
      労煩の間、信長、相待ち、下山、
      申し聞かすべきの由、返事候ひおわんぬ、

     一条内基も、岐阜に来ていた。              【 人物 】
     内基は、天文十七年1548の生れ。
     まだ、若い。
     後の関白である。
     信長に、頼み事があったのだろう。
     言継は、その宿所を訪ねた。

      一条殿の内、堀川近江守、来談、
      去る月、廿七日に、一条殿、御下向と云々、
      則ち、御宿を尋ねる、
      朝飡以後、一条殿へ参る、
      丸藻宅に御座なり、
      干飯にて、一盞、下されおわんぬ、
      勧修寺門跡、御同道なり、
      納涼、各(おのおの)、午臥しおわんぬ、
      晩飡、御相伴なり、
      今夜、逗留すべきの由に候間、宿しおわんぬ、

     信長は、老人に優しい。
     信長から、言継に。
     夕庵が、それを伝える。    

      武井夕庵、黄昏に及び、弾正忠(信長の)、使いとして、来たり、
      一条殿御宿へ、尋ね来たり、

     信長は、言継を、「老足」=老人と言っている。 
     言継は、永正四年1507の生まれ。     【 人物 】 そ第26話②
     この時、六十三歳。
     信長は、この言継を、「老足」=老人と言っている。
     これが、信長の、老人観なのである。

      極暑の時分、老足、奇特なり、

      又、三川(河)へ下向のこと、自分用か、又、御使いか、
      相尋ねるの由、これ有りと云々、

      山上は、老足、大儀たるべくの間、
      明日、麓の宅にて、見参すべきの由、これあり、
      夕庵に御使いの由、申し聞かせ、

      次、一条殿、御見参、御盃、下され、暫しの御雑談どもなり、
      明日は、案内すべきの由、これあり、
                               (「言継卿記」)

     【引用】 そ第11話㊱



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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