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本能寺の変1582 【重史108】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史108】 「言継卿記」 

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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    4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 ←
    3(1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
     そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史108】 そ第11話㉔

    ①内待所簀子(すのこ=縁側)にて遠見、

    ②三人衆以下、申の刻、敗軍、

                           「言継卿記」

     永禄十二年1569、一月六日。
      【重史105】 【重史106】 【重史107】より、つづく。

      山科言継は、戦いの様子を御所から遠見していた。
      本國寺は、御所の西南方向3.5kmほどの距離にあった。
      京都の地面は、北から南に向かって緩やかに下っている。
      その標高差は、約25m。
      その間には、今と違って高い建築物などはない。
      時は正月、空気が澄みきった快晴であった。
      したがって、見通しがきき、よく見えたことだろう。
      言継は、義昭方の勝利を知り安堵した。

       一月六日、庚戌(かのえいぬ)、天晴、
       内待所簀子(すのこ=縁側)にて遠見、
       南方、所々放火、
       人数四五百、如意寺の嶽を越し、志賀少し放火と云々、
       晩頭、帰りおわんぬ、
       南方の儀を聞く、方々、敗北と云々、
       内待所に於いて、予・四辻宰相中将・白川侍従・薄等、
       一盞(いっさん=酒)有り、
       雙六有り、
                               (「言継卿記」)

      後詰の軍勢は、三方向から、三好勢を攻めた。
      包囲されるような形になったのだろう。
      午後四時頃までに、勝敗が、決したという。

       三好日向以下、悉く、七条へ越すと云々、
       西より、池田・伊丹衆、
       北、奉公衆、
       南、三好左京大夫(義継)、取り懸け、
       左京兆、譴(せ)め入り、三方より切り懸け、
       三人衆以下、申の刻、敗軍、
       多分に、討死、と云々、
       黄昏に及ぶの間、殊に沙汰なし、
                               (「言継卿記」)

    【引用】そ第11話㉔



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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