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本能寺の変1582 重要 ◎第49話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    重要 ◎第49話② 

    8光秀の苦悩 1守るべき者 3/3 

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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
     47 ◎ 48 ◎ 49 ◎ 
    *以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
    *加筆修正 
    【シリーズ】信長の甲斐侵攻 

    7 守るべき者。

    光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。

     天正八年1580、光秀は、見事に、明智氏を復興させた。
     それ以後 (同九年1581~) 、光秀は、戦場に出ていない。
     すなわち、明智氏は、平和な時代を迎えていた。 

    すべては、明智のため、家族のため。

    光秀は、そう、考えていた。

     光秀は、家族を愛した。

     1妻
       正室 妻木氏。
          生没年不詳。
          天正四年1576、光秀の看病後、疲労のため、病死した
          という。

       側室 いたものと思う。
          詳細は、わからない。
          光慶は、おそらく、側室の子なのではないか、・・・・・。

     2子 (年齢順)
       三人の娘たち。
       嫡男光慶。
       これ以外にも、複数の子どもたちがいたようである。

     3娘婿
       長女 織田信澄
       二女 明智秀満
       三女 細川忠興

     4そして、一族・縁者・家臣たち。
       彼らの中から、裏切り者は、一人も出ていない。

    「明智光秀覚条々」 光秀 → 細川藤孝。

     以下は、本能寺の変の七日後、光秀が細川藤孝へ送った書状である。
     全三条の内の最末条。
     光秀は、その中で、謀叛に至った理由を申し述べている。
     きわめて、重要な史料である。
     是非、ご一読されたい。

      一、我等、不慮の儀、存じ立て候事、①
        忠興など、取り立て申すべきとての儀に候。②
        さらに、別条なく候③。
        五十日・百日の内には、近国の儀、相堅めるべき候間、④
        それ以後は、
        十五郎(光慶)、与一郎(忠興)殿など引き渡し申し候ひて、⑤
        何事も存ずまじき候。⑥
       ( 天正十年六月九日付「明智光秀覚条々」「細川家文書」一部抜粋 )

    これが、謀叛の理由である (①~⑥) 。

    ①「我等不慮の儀存じ立て候事」

     突然のことで、さぞかし、驚かれたものと思う。
     我らが、謀叛を起こした理由は、・・・・・。

    ②「忠興など、取り立て申すべきとての儀に候」

     貴殿の嫡男忠興らの、将来を考え、取り立てようと思ったから、である。

    ③さらに、別条なく候③。

     他に、意味はない。

    ④「五十日・百日の内には、近国の儀、相堅めるべき候」

     畿内近国については、五十日・百日の内に平定するつもりである。
     それまでには、この動揺も落ち着くであろう。

    ⑤「それ以後は、十五郎、与一郎殿など引き渡し申し候」

     その後のことは、光慶、忠興殿に引き渡し、自分は身を引いて、任せよう
     とようと思っている。

    ⑥「何事も存ずまじき候」

     それ以外のことは、何も考えていない。

    光秀は、子らの将来を案じていた。

     ②③より。

    光秀は、光慶への跡目相続を考えていた。

    最良の状態で、光慶に引き継いでやりたかった。

     ②③より。

     親心である。
     明智氏は、絶頂期にあった。
     そう、言えるだろう。
     これが末永く続くことを願っていた。
     当然である。

    信長が、その障害になっていた。

     だが、しかし、・・・・・。
     そこには、大きな壁があった。
     すなわち、邪魔者。
     ②③④⑤より。

    そして、「本能寺の変」。

     光秀は、そう、言っている。
     ②③④⑤より。

     これらについては、後述する。

    同じ頃、秀吉が姫路城を出発した。

     西 備中高松 → 播州姫路 →     東

    光秀は、秀吉の動きを、まだ知らない。

     ④より。

    山崎の合戦は、この日から四日後(六月十三日)である。



    これで、謀叛の理由は、明らかになった。
    ならば、何故、そう、なったのか、・・・・・。

    「本能寺の変」、「その原因・動機を究明する」。

    只今、鋭意執筆中!!
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     ⇒ 次へつづく

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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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