
かつて愛したあなたに捧ぐ 第9話
爽やかな朝の光。
見慣れた美しい景色。
色鮮やかな花々。さえずる鳥の声。
朝一番におむつを替えて、ミルクを冷ましながら離乳食をあげる。
私とミリは来た時の服に着替えた。
最後の朝だ。
いい朝だった。
「おはよーシス、おはよーミリ」
「おはようレイ。よく眠れた?」
「ねむい……」
「昨日遅かったもんね。着替えちゃいな」
「はーい」
目をこすっていたレイはのろのろと着替え始める。
ノックがした。
「朝食をお持ちしましたよ」
「シャーロット、みないでー!」
「奥行って、早く着替えな」
着替えを持ってレイがトイレに駆け込む。
いつもの朝だった。
「帰還の儀の準備は整っております」
「何から何まですみません。何も返せなくて、」
「お役目は果たしていただけたのですから充分でございます。シス様とミリ様は御信託のとおりの救世主様でした」
「とんだポンコツ救世主でしたね」
「滅相もございません。私も働き甲斐がございました」
シャーロットは薄く笑みを浮かべて退出する。
私がここに来たばかりの頃より、ほんの少しだけ気安い笑みに見えた。
ミリはミルクを飲み終えて、私はレイと一緒に朝食を取る。
――ここから見る景色も最後か……。
随分と楽しませてもらった、絵画のような風景。
外に出られない日々の中で、この景色に救われていた。
似ていないはずなのに、どこか懐かしいと思っていた。
異世界にいる気がしなかった。
だからかもしれない。救世主として、できることはしてあげたかった。
穏やかな食事を終えて、初めてここに来た時の召喚の間に向かう。
ミリを歩かせるといつまで経っても目的地に辿り着かないので、途中から抱っこにした。
レイは黙って着いてきた。
「皆さん、色々と、ありがとうございました」
ミリを抱いたまま頭を下げる。なぜかレイも一緒に頭を下げていた。
「お礼を言うのはこちらの方です。救世主様、本当にありがとうございました」
ローガンさんたちも頭を下げてくれた。
――後ろのおじさんたち、最後まで名前知らないままだったな。
まあいいか、今後会うこともないし。
後ろで私にしがみついているレイを振り返ってしゃがみ込む。
「ねえ、レイチェル」
「……ん?」
耳元でそっと告げた。
「私の名前はシステナ。この子の名前はミリア。知ってるのは、レイだけ」
「、だ!」
「……そうなの?」
レイの顔を見て、私は笑って見せた。
「どうしても寂しかったら、10年後また呼んで? 10年経ったら呼べるんでしょ?」
「……いいの?」
「世界を救うとか無しね? それでもいいなら、遊びに来るよ」
「あー」
「……うん!」
ようやくレイに笑顔が戻る。
ありがとうと握手をして、私とミリは魔法陣の上に立った。
「お世話になりました」
高いところにいる祈祷師さんたちを見ながら、私とミリは白いモヤに包まれた。
目を開けると、ひと月ぶりの懐かしい我が家にいた。
建物は変わっていないのに、家の中は変わり果てていた。
荷物が散乱し、まるで強盗にあった後のようだ。
時計で日時を確認すると、あの人は仕事で外出中のようだった。
充電の切れたスマホを探し、通帳を探し、財布を探した。
ミリの母子手帳を取り出し、ほんの少しの着替えを出し、必要最低限の荷造りをする。
ミルクをとおむつと離乳食、おやつ。
マグにお湯を入れて冷ます。
あの人がこんな昼間にいるわけがないと分かっていても、私の心臓はバクバクと激しく鳴った。
玄関に置いてあったベビーカーを引っ張り出し、散乱したあの人の荷物はそのままにして、家を出た。
「いーい天気だねー」
ひと月ぶりのベビーカーが心地よいのか、あるいはもうこの辺りの景色を忘れてしまったのか、ミリはキョロキョロと周囲を眺めまわしている。
「……とりあえずお役所かな……」
家から役所までは歩きだと少しかかる。
行き交う人は、私たちがひと月行方をくらましていたことも、あまつさえ異世界を救ってきたことも、何も知らない。
このまま別居して、離婚をしようと企てていることも。
ただ、子供と散歩している優雅な専業主婦に見えるんだろう。
――住むところと、仕事と、保育園。シェルターのようなところは入れてもらえるだろうか。どこかでスマホを充電させてもらって、親に連絡を取らないと……。
重々しいため息を吐いて、一歩ずつ足を進める。
異世界を救ってきましたと言って、一体何の仕事があるというのか。そもそも、誰も信じない。
私は役所で何を言われるんだろう。自分の親に何て言われるんだろう。
あの、暗くて狭い、あの人に支配された部屋に、追い返されることになるんだろうか。
――それでも、進むって決めたから。
一歩一歩、歩いていく。
私にはあの移動式ゆりかごもなければ、当然だけど魔法陣も使えない。
だけど、このベビーカーと自分の足がある。
いや、たとえベビーカーが壊れても、私の足が動かなくなっても、前に進みたいという意思がある限り、私は歩いて行ける。
いつだって、どこへだって。どんなことがあったって。
――10年後、レイに胸を張って会えるように。
「たー!」
私は自分の足で歩いていく。
「さよなら……好きだったよ」
はなむけとして、この気持ちを捧げよう。
かつて確かに存在した、私が愛したいつかのあなたに。