
第3話② ひどい怪我だったら…
救護室の時計が、静かに時を刻んでいる。
彼女はうつむいたまま、膝の上で両手を重ねていた。
私はすぐには話しかけなかった。
現場で仕事をしていると、不思議に思うことがある。
人は身体に触れられるよりも先に、心に踏み込まれることを怖がる。
だから私は、急がない。
評価も「待つこと」から始まることがある。
「膝、もう一回だけ診るね。」
彼女は小さくうなずいた。
膝の擦り傷、出血は止まっている。
腫れもない。
膝周囲を軽く触診する。
圧痛は表層のみ。
曲げ伸ばしともに問題ない。
立ち上がってもらい、その場で数歩歩いてもらう。
歩幅は少し狭い。
でも、それは膝が原因ではなかった。
左脚に体重を乗せることを避けているわけではない。
前に進むこと自体をためらっているような歩き方だった。
私は椅子を勧めた。
「膝の動きは大丈夫」
彼女は安心するどころか、小さくうつむいた。
「……そうですよね」
その声には、どこか残念そうな響きがあった。
私はその違和感を逃さなかった。
「膝がもっとひどい怪我だったらよかった?」
彼女の肩がわずかに震えた
…沈黙
やがて、震える声が返ってきた。
「そうだったら……みんなに言い訳ができたかもしれません」
私は何も言わなかった。
彼女は続けた
「バトンを落としたのは私です」
「怪我じゃない」
「誰のせいでもない」
「…全部、私です」
言葉があふれるたびに、涙が落ちる。
私はティッシュには手を伸ばさなかった。
涙は、止めるものじゃない。
流し切って初めて見える景色がある。
しばらくして私は静かに尋ねた。
「リレーって、何人で走る?」
彼女は不思議そうな顔で答えた。
「四人です。」
「本当に?」
彼女は首をかしげる。
私は救護室の窓から競技場を見つめた。
トラックには、もう誰もいない。
さっきまで歓声に包まれていた場所が、夕日に照らされている。
「今日、第一走者は誰だったの?」
「…中学からの同級生です。」
「その子は、今日だけ走ったの?」
彼女は首を横に振る。
「違います。毎日、一緒に練習してきました。」
「第二走者は?」
「毎朝、一番早く来てました。」
「アンカーは?」
「ケガを乗り越えて、やっと今日走れたんです。」
私はうなずいた。
「君が今日受け取ったバトンは、四人だけのものじゃない。」
彼女は黙って聞いている
「先輩から受け継いだ時間」
「家族が送り出してくれた朝」
「何度転んでも一緒に走った仲間」
「暑い日も寒い日も見守ってくれた先生」
「その全部が、君の手の中にあった。だからこそプレッシャーだったと思う。」
彼女の目から、大粒の涙がこぼれた。
「でもね…」
私はゆっくりと言った。
「でも…バトンを落としたからってあなた自身の価値がなくなるわけじゃない。」
その瞬間だった。
彼女は声を上げて泣いた。
救護室に響くその泣き声は、悔しさだったのか、申し訳なさだったのか。
きっと、そのどちらでもあった。
私は何も慰めなかった。
代わりに、そっと椅子を彼女の近くへ寄せた。
人は、立ち上がれない時がある。
そんな時に必要なのは、前から引っ張る人じゃない。
隣で座ってくれる人なのかもしれない。
泣き止んだ彼女は、小さくつぶやいた。
「……もう走れない気がします。」
私はすぐには答えなかった。
その言葉には、「陸上を辞めたい」という意味だけではない。
もう仲間の前を歩けない
もう自分を許せない
そんな思いが隠れていることを、私は感じていた。
救護室の窓から吹き込む夕方の風が、静かにカーテンを揺らした。
私は深呼吸を一つして、彼女に向き直る
理学療法士として
そして、一人の大人として
彼女に伝えたい言葉が、ようやく見つかった気がした。
つづく