
嘘のない私に
最近、読書をする時間が少しづつ増えている。
電車に乗っている時、カフェで一息つく時、家でのんびりしたい時。
スマホを持つようになる前は読書がこれらの時間の穴埋めをしてくれていたが、高校生でスマホを持ってからは徐々に本がスマホに置き換わった。さらに病気をしたことで、重い荷物を長時間持てなくなり鞄を軽くしなければならなくなった。最初に荷物のラインナップから削ったのは本だった。
本からSNSや動画サイトに移ったそれらの時間は、実にインスタントなものになった。より短い時間で短い情報を、自分の都合の良い時間だけ見ることができる。なんでもすぐに完結できるから、移動中などは本当に都合が良い。小説なんてキリのいいところで電車を降りられることはほとんどないのだから。
けれどこれはクリエイターの性分というものなのか、私の性格のためか、SNSを見ていると自分以外のクリエイターが仕事をしている様や作品を目にしてものすごく焦らされる時がある。
作編曲の仕事、アーティスト活動などで生きている私には、基本的に決まった休みがない。作編曲の仕事には締め切りというラインがあって、そこに間に合うように仕事をするのでいつ休みを取るか、はたまた取らないかは個人の自由である。私の周りには休みを"取れない"忙しい作編曲家がたくさんいるが、私はまだそうではない。だからこそアーティスト活動ができるという利点もあるが、"まだそうでない"自分に焦りも感じる。
それにアーティスト活動といっても色々と理由があって先に進めない時もあって、たとえば新曲を書いて色々なレーベルに提出して返事待ちだったり、新曲を書けるタイミングになっても書く題材がなかったり、書いてもいざマイクを立てて演奏して動画を撮って…という体力や気力がなかったりする。そういう隙間のような時間にSNSを見てしまうと、だんだんと焦燥感と虚無感が心を蝕み、さらに気力や体力が削られる。
知らない間に消耗していることに気がつき、私は再び本を持ち歩くようになった。荷物の重くない日に限るけれど。
ある時カフェで本を片手にお茶をしていると、ふと思い出した。私は小中学生の授業時間中、ずっと小説を書く内職をしていた。良くないことは言うまでもないし、先生に見つかって没収されたこともある。けれどめげずに書いていた。内容は本当にくだらなかったと思う。ラブストーリーや(良く言えば)転生モノ、ミステリーとかも書いていたっけ。どれも実家を出る時に全て処分してしまった。
なぜ内職していたかというと、授業時間が苦痛だったからに他ならない。小説を書くことで現実から逃げていたのだ。物語を考えている時は違う世界に入れるから。空想を現実化することで、現実に向き合ってない自分を肯定したかったのかもしれない。
こうした時間は誇れるものではないが、後悔はしていない。ピアニストの道しか考えていなかった私が病気になり、ピアノが満足に弾けなくなった時、作曲家という進路選択が生まれたのは、"書いて生み出す"行為をしていた過去の自分があったからだった。
カフェインレスコーヒーを飲みながら、没頭していたあの時間を思い出して私は急激にその世界に戻りたくなった。授業中、先生の声が耳に入らないほどに没入していた世界に。それは本を読むだけでは満たされない、生み出す人だけが得られる極上の時間。物語のその世界に住んでいるような感覚をまた感じたい。
アーティストとして曲を作っている時の自分に似ているかもしれないけれど、それは現実の自分を曲に投影しているだけであって非なるものである。別次元ではないから多少の苦痛が伴う。
たぶん、もし私が物書きになる道を選んでいたら、逆の気持ちになるかもしれない。物書きで生きていくなんて、曲を書くよりずっと大変なことのように思うから。きっと物書きの世界の現実を突きつけられて逃げたくなるんだろう。
コーヒーを飲み終える頃、私は再び有意義な現実逃避をしてみようと心に決めた。現実逃避したいという嘘のない私になろう。