退院サマリーの最後の一文|創作短編小説
退院サマリーは、だいたい最後に書く。
入院の経過。
検査結果。
治療内容。
退院時処方。
今後の方針。
それらを、できるだけ淡々とまとめる。
淡々と、というのが大事だ。
感情を入れすぎてはいけない。
推測を書きすぎてもいけない。
患者さんの人生を扱っているくせに、文章はできるだけ乾いている方がいい。
医学的に。
客観的に。
簡潔に。
そう教わった。
だから僕も、そう書いていた。
その日も、いつも通りだった。
肺炎で入院していた八十代の男性。
抗菌薬で改善。
酸素終了。
食事再開。
リハビリも入り、自宅退院。
長男夫婦と同居予定。
訪問看護導入。
外来フォロー。
よくある退院だった。
よくある、という言葉はあまり好きではない。
でも実際、よくある。
僕は電子カルテを開き、退院サマリーを書いた。
最後にこう入力した。
【外来にて経過フォローとする。】
保存。
それで終わるはずだった。
翌朝、上級医に言われた。
「お前さ」
「はい」
「最近、サマリーの最後に変な一文つける癖あるぞ」
「変な一文?」
「見てみろ」
カルテを開く。
退院サマリー。
僕の文章。
その最後に、見覚えのない一文があった。
【ご家族はまだ気づいていない。】
指先が止まった。
「……これ、僕が書きました?」
「俺が聞いてる」
上級医は笑わなかった。
僕も笑えなかった。
「AI要約のバグじゃないですかね」
最近導入された退院サマリー支援機能が、時々妙な文章を混ぜることはあった。
「食事摂取良好」を「食事への意欲あり」と言い換えるくらいならまだいい。
だが「ご家族はまだ気づいていない」は、明らかに違う。
医学的でもない。
客観的でもない。
簡潔ではある。
簡潔すぎる。
上級医は腕を組んだ。
「まあ、気持ち悪いから消しとけ」
「はい」
僕はその一文を消した。
保存した。
もう一度開いた。
消えている。
ただのバグ。
そう思うことにした。
その患者さんは、予定通り退院した。
何も起きなかった。
……はずだった。
数日後、外来から連絡があった。
退院した男性が、薬をほとんど飲めていないらしい。
長男夫婦は、本人が薬を管理できていると思っていた。
本人は、長男夫婦が管理してくれていると思っていた。
薬袋は、棚の奥に入ったままだった。
誰も気づいていなかった。
僕は、その話を聞きながら、カルテの最後の一文を思い出していた。
【ご家族はまだ気づいていない。】
偶然だ。
そう思った。
思うしかなかった。
次は心不全の患者だった。
九十代女性。
入退院を繰り返している。
娘が主介護者。
今回も利尿薬調整で改善し、自宅退院予定。
娘は疲れていた。
それは誰が見てもわかった。
退院前の面談で、娘は何度も「大丈夫です」と言った。
「自宅で見られます」
「薬も管理できます」
「食事も気をつけます」
「何かあったら外来に電話します」
そう言いながら、膝の上の書類を握りしめていた。
紙の端が、少し折れていた。
僕はそれを見た。
見たけれど、何も言わなかった。
患者さんは言った。
「娘はよくやってくれるんです」
娘は笑った。
「そんなことないよ」
その笑顔は、少し硬かった。
でも、退院は決まっていた。
病状は安定していた。
在宅サービスも入っていた。
本人も自宅を希望していた。
僕は退院サマリーを書いた。
心不全増悪。
利尿薬調整。
酸素不要。
体重管理。
塩分制限。
外来フォロー。
保存。
翌朝。
最後に一文。
【娘は限界だ。】
意味がわからなかった。
限界?
何の?
なぜそんなことを書く?
僕はすぐに編集履歴を見た。
記録者。
僕。
編集時刻。
01:47。
まただ。
また僕だった。
僕のID。
僕の端末。
僕の記録。
AIのバグではなかった。
少なくとも、表面上は。
僕が書いていた。
僕が書いたことになっていた。
でも、覚えていない。
その日の午後、看護師から聞いた。
娘は最近、夜に眠れなくなっていたらしい。
患者本人ではなく、娘が。
「先生」
看護師は声を落とした。
「娘さん、かなり疲れてると思います」
僕は答えられなかった。
その一文は、消した。
消したのに、頭から消えなかった。
それから僕は、退院サマリーを書くのが怖くなった。
退院サマリーは退院後のために書く。
次の医師へ。
外来へ。
施設へ。
訪問看護へ。
未来の自分へ。
でも、いつの間にか僕にとってそれは、何かを暴く文書になっていた。
僕が知らないこと。
僕が見なかったこと。
僕が見ていたのに、見なかったことにしたこと。
それが最後の一文に現れる。
もちろん、誰にも言えない。
「退院サマリーに変な文章を書いているのは自分です。でも覚えていません」
そう言えば、かなりまずい。
システム課案件では済まない。
体調。
睡眠。
メンタル。
勤務継続。
いろんな話になる。
だから、黙っていた。
黙って、消していた。
最後の一文を見つけては、消す。
消す前に、少しだけ考える。
なぜこの文章が出たのか。
僕は何を見たのか。
何を見なかったことにしたのか。
ある夜、僕は一人で医局に残っていた。
画面には退院サマリー。
患者は七十代男性。
脳梗塞後。
嚥下機能低下。
胃瘻造設後、療養型病院へ転院予定。
妻は転院に納得していた。
長男も同意していた。
本人は発語が少なく、意思確認は難しかった。
日中のリハビリカンファで、療法士が言った。
「表情は穏やかです」
看護師も言った。
「ケアへの拒否はありません」
妻も言った。
「家では見られないので、お願いします」
長男は何度も頷いていた。
その場にいる全員が、同じ方向を向いていた。
だから僕も、その方向を見た。
療養型へ転院。
それが現実的だった。
その日の午後、病室に行った時、本人は窓の方を見ていた。
「明日、転院ですね」
僕が言うと、本人はこちらを見た。
「療養の病院に移ります」
目が合った。
何か言いかけた気がした。
でも、言葉にはならなかった。
僕は少し待った。
ほんの少しだけ。
そして、次の予定があったので病室を出た。
それでも、本人の表情は穏やかに見えた。
見えた。
いや。
見えたことにした。
僕はサマリーを書いた。
経過。
治療。
今後の方針。
保存。
すぐに開き直す。
最後の一文はなかった。
少し安心した。
その瞬間、画面が一度ちらついた。
いや、ちらついたように見えた。
眠かった。
その日は当直明けだった。
前の日もあまり寝ていなかった。
画面の文字がにじんでいた。
僕は目をこすった。
カーソルが、最後の行で点滅していた。
いつの間にか、文字が増えていた。
【本人は納得していない。】
心臓が強く打った。
そんなはずはない。
本人はほとんど話せない。
意思確認は難しい。
納得していない、なんて判断できる状態ではない。
僕は編集履歴を開く。
記録者。
僕。
編集時刻。
今。
たった今。
僕は、画面の前に座っていた。
部屋には誰もいなかった。
キーボードの上には、自分の手があった。
覚えていない。
打った記憶がない。
でも、僕が打った。
それ以外にありえない。
その時、少しだけわかった気がした。
あの文章は、未来を予言しているわけではない。
誰かが教えてくれているわけでもない。
昼間の僕が見たものだ。
家族の目線。
患者の沈黙。
面会時の間。
言いかけた言葉。
カルテには書かなかった違和感。
忙しさの中で押し流したそれらを、夜の僕が拾い直している。
そう考えれば、説明できる。
いや、説明できてはいない。
だが、少し安心した。
幽霊よりはましだった。
AIよりもましだった。
誰かにカルテを改ざんされているよりは、ずっとましだった。
自分で書いている。
それならまだ、どうにかなる。
そう思った。
今考えると、その安心が一番危なかった。
それから僕は、最後の一文をすぐには消さなくなった。
まず読む。
考える。
なぜそれを書いたのか。
僕は何を見たのか。
何を見なかったことにしたのか。
そして、カルテに書くべきことは何なのか。
【妻は一度も目を合わせなかった。】
【長男だけが笑っていた。】
【本人は痛いと言っていない。】
最後の一文は、少しずつ短くなっていった。
短く。
鋭く。
まるで僕が、僕自身にメモを残しているみたいに。
周りからは、よく気づく医師のように見えたらしい。
「先生、よくそこ拾いましたね」
退院支援カンファで、看護師に言われた。
「いや、たまたまです」
僕は答えた。
「でも、あの家族の違和感、先生が言ってくれなかったら流れてましたよ」
そう言われると、悪い気はしなかった。
怖いのに。
気持ち悪いのに。
それでも、評価されると嬉しい。
人間は面倒だ。
いや、僕が面倒なのか。
上級医にも言われた。
「最近、退院調整の精度上がったな」
「そうですか」
「家族の見方が細かい」
「ありがとうございます」
嬉しかった。
嬉しくて、また怖くなった。
僕は何を褒められているのだろう。
僕が見ているのか。
それとも、夜の僕が書いているのか。
その境目が、少しずつ薄くなっていった。
ある日。
外来が終わったあと、医局に戻ると、上級医が言った。
「顔色悪いぞ」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う時は、大丈夫じゃないことが多い」
その言葉に、少しだけ引っかかった。
前にも似たようなことを聞いた気がした。
患者の家族に。
看護師に。
自分自身に。
「ちゃんと寝てるか」
「寝てます」
「何時間」
「……それは」
「寝てないんだな」
上級医はため息をついた。
「お前、最近サマリー多いだろ。無理してるなら言えよ」
「大丈夫です」
また言った。
大丈夫。
便利な言葉だ。
何も説明せずに、説明した気になれる。
「本当に大丈夫か」
「はい」
その夜。
僕はまた医局に残った。
退院サマリーが溜まっていた。
誰かがやらなければいけない。
そして、誰かとはだいたい自分のことだった。
画面を開く。
患者は八十代女性。
誤嚥性肺炎。
抗菌薬で改善。
食事形態調整。
施設へ退院予定。
娘は何度も面談に来ていた。
いつも丁寧だった。
いつも笑っていた。
いつも「大丈夫です」と言っていた。
昼間の面談で、娘はこう言った。
「施設でお願いします。もう家では無理なので」
その言い方は落ち着いていた。
感情的ではなかった。
むしろ、整いすぎていた。
「お母さんには説明されていますか」
「はい。大丈夫です」
「退院後の荷物などは」
「大丈夫です」
「何か気になることは」
「大丈夫です」
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
僕はその言葉を聞きながら、ペン先で紙を叩く娘の指を見ていた。
規則的に。
小さく。
ずっと。
サマリーを書いた。
経過。
治療。
退院後方針。
保存。
最後の一文は出なかった。
よかった。
そう思った。
カルテを閉じようとした。
その直前。
画面の最後の行に、カーソルが点滅しているのが見えた。
僕は手を止めた。
文字は、まだなかった。
キーボードの上に、自分の指があった。
打つな。
そう思った。
打つな。
見たくない。
もう見たくない。
それでも指は動いた。
一文字ずつ。
ゆっくり。
自分の手なのに、自分のものではないみたいだった。
いや、違う。
自分のものだった。
間違いなく、僕の手だった。
画面に一文が現れた。
【娘も、大丈夫ではない。】
僕はしばらく、その文字を見ていた。
保存は、まだしていなかった。
つまり、今、打たれたばかりだった。
画面の前にいるのは僕だけだった。
キーボードの上にあるのも、僕の指だった。
最後の一文は、勝手に現れたのではなかった。
僕が書いていた。
ずっと。
気づいていなかっただけで。
僕は保存せずに、画面を閉じた。
そのまま椅子にもたれた。
もう、病棟に行く気力はなかった。
娘さんに電話をする気力もなかった。
退院を延期する気力もなかった。
ただ、画面を閉じた。
それだけだった。
翌朝、退院は予定通り行われた。
特に問題は起きなかった。
少なくとも、その日には。
僕は外来をして、病棟を回って、カンファに出た。
何もなかったように働いた。
何もなかったように、働けてしまった。
そのことが、何より怖かった。
その夜から、眠れなくなった。
いや、正確には、眠っている時間がわからなくなった。
医局で目を閉じる。
次に時計を見ると、一時間経っている。
でも、休んだ感覚はない。
カルテには記録が増えている。
僕のIDで。
僕の文体で。
退院サマリーの最後の一文だけではなく、看護師への指示、家族への連絡メモ、外来予約の修正。
どれも間違ってはいない。
むしろ、正しい。
正しいから、余計に怖かった。
上級医に呼ばれた。
「お前、産業医面談入れたから」
「え」
「限界だろ」
「大丈夫です」
上級医は、そこで初めて怒った。
「その大丈夫はもう聞き飽きた」
何も言えなかった。
産業医面談。
精神科受診。
休職。
そこから先は、思っていたより早かった。
自分の状態を説明する言葉が、他人の口から出てきた。
睡眠不足。
過重労働。
記憶の抜け。
解離症状。
ストレス反応。
最初は、どれも自分のことではないみたいだった。
僕は医者だ。
診断する側だ。
患者さんに説明する側だ。
そう思っていた。
でも、白衣を脱げば、ただの人間だった。
壊れる時は、普通に壊れる。
数日後。
僕は入院した。
精神科病棟だった。
任意入院。
休むため。
安全を確保するため。
そう説明された。
病室は静かだった。
静かすぎて、落ち着かなかった。
スマホは制限された。
電子カルテは見られない。
PHSもない。
退院サマリーもない。
誰も僕にサマリーを書けとは言わない。
それなのに、夜になると頭の中に画面が開く。
入院経過。
検査結果。
治療方針。
今後の見通し。
白い画面。
黒い文字。
点滅するカーソル。
僕は目を閉じる。
書くな。
書くな。
書くな。
でも、頭の中のカーソルは止まらない。
朝、主治医が来る。
「眠れましたか」
僕は答える。
「少し」
嘘だった。
眠っていたのかもしれない。
でも、眠った記憶がなかった。
「食事は食べられましたか」
「はい」
これも、たぶん嘘だった。
食べた気はする。
でも、味は思い出せない。
主治医はカルテに何かを打ち込む。
その指の動きを見ていると、胸の奥がざわついた。
今、何を書いているのだろう。
僕の経過。
僕の症状。
僕の言葉。
僕の沈黙。
僕の目線。
僕の、最後の一文。
「先生」
主治医が顔を上げる。
「今は、診る側ではなく、休む側です」
僕は頷いた。
頷いたはずだった。
でも頭の中では、もう文章が組み上がっていた。
【本人は休息の必要性を理解していると述べるが、表情は硬く、視線は記録端末に向きがちである。】
やめろ。
僕は患者だ。
医者じゃない。
書くな。
書くな。
書くな。
夜。
病棟の廊下を歩く音がする。
誰かの寝息。
遠くのナースコール。
小さな物音。
その一つ一つが、所見に聞こえる。
隣の部屋の患者が、夕食を半分残していた。
向かいの患者は、面会後から表情が変わった。
看護師は、僕に薬を渡す時だけ少し声を低くする。
見なくていい。
拾わなくていい。
僕はもう、担当医ではない。
それでも頭の中のカルテは閉じない。
閉じても閉じても、勝手に開く。
入院経過。
睡眠不良。
焦燥感あり。
病識不十分。
休職への抵抗あり。
今後の方針。
休養継続。
環境調整。
再発予防。
そして。
最後の一文。
僕は布団をかぶった。
目を閉じた。
何も見ないようにした。
何も聞かないようにした。
それでも、白い画面だけが浮かぶ。
カーソルが点滅している。
僕の指は動いていない。
キーボードもない。
電子カルテもない。
なのに、文字は勝手に現れる。
【本人は、まだ自分が患者だと気づいていない。】
