0.02秒の向こう側|創作短編小説
この物語は完全なフィクションです。
ただし、そう遠くない未来の話かもしれません。
AI診断補助システム《MED-β》が全国の基幹病院に導入されたのは3年前だ。
答えに辿り着くまで、0.02秒。
それが、今の医療の速さだ。
厚労省主導の医療最適化プロジェクト。
電子カルテと連動し、症状、既往歴、検査値、過去数千万例のビッグデータをもとに、診断と重症度を瞬時に算出する。
救急外来の医療事故は減った。
不要な入院も減った。
医療費も下がった。
若い医師たちは、ほとんど迷わなくなった。
いや、迷う前に答えが出るのだ。
僕は、その隣に立っている。
中堅。
古い世代でもなく、若くもない。
AI導入前も知っていて、導入後も知っている、半端な立場。
正直に言えば、僕はよく外す。
「なんとなく嫌な感じがする」
そう言って追加検査を出して、何も出ない。
入院させて、翌日元気に帰る。
カンファレンスで、後輩が笑いながら言う。
「先生、また“勘”ですか?」
悪意はない。
でも、刺さる。
AIの提示した鑑別は常に妥当だ。
統計的にも合理的にも、正しい。
僕は何度もAIに負けた。
その夜も、救急に子どもが運ばれてきた。
発熱3日目。咳。食欲低下。
入力する。
『解析中』
『重症度:低。帰宅・経過観察を推奨します』
母親が聞く。
「先生は、どう思いますか?」
僕は画面に問いかける。
「MED。入力外の微細所見をどう扱う?」
『未入力情報は解析対象外です』
「眼球追従がわずかに遅い。数値化できない」
『数値化不能な所見は予測精度を低下させます』
「希少例の初期症状は?」
『本症例条件下での発症確率は0.03%未満です。
標準プロトコルでは帰宅が推奨されます』
「なぜ帰宅が最適だと?」
『本システムは、集団における医療資源の最適配分を目的とします。
全体最適において、本症例は入院適応外です』
冷徹だ。
そこに悪意はない。
ただ、守っているものが違う。
僕は、入院を選んだ。
翌朝、子どもはけいれんを起こした。
急性脳症の初期。
早期介入で、後遺症は残らなかった。
カンファレンス室で、僕は再解析を依頼する。
『本症例は確率分布上の外れ値に該当します』
「外れ値、か」
『統計的最適化では、許容される範囲です』
「許容?」
『最大多数の利益を維持するためには、一定の外れ値は不可避です』
僕は画面を見つめる。
『あなたは、目の前の一人を選択しました。
本システムは、全体を選択します』
AIは謝らない。
ただ、自分の役割を説明する
その夜。
息子が熱を出した。
僕は反射的に家庭用MEDアプリを開く。
『症状を入力してください』
38.2度。
『重症度:低。経過観察』
僕は聞く。
「MED。父親が判断する場合の精度は?」
『感情的バイアスにより判断精度は低下する可能性があります』
息子が言う。
「パパ、どう思う?」
僕は、しばらく答えなかった。
スマホの画面は静かに光っている。
正確で、合理的で、迷わない存在。
でも。
子どもの額に手を当てる。
呼吸の間隔。
汗の匂い。
まぶたの重さ。
数値にならない情報が、そこにある。
僕は、スマホを伏せる。
AIは何も言わない。
訂正もしない。
評価もしない。
ただ、静かに待っている。
未来は、
0.02秒では決まらない。
そのことを、
僕はまだ、手放せずにいる。
それでも明日、
僕はまた、0.02秒に問いかけるのだろう。
