白衣のつづき ―第一話―全四話
※創作大賞応募用のあらすじのため、結末まで含みます。ネタバレを避けたい方は、先に本文を読んでいただけるとありがたいです。
あらすじ
9歳の湊は、急な体重増加とまぶたの腫れをきっかけに、ネフローゼ症候群と診断される。入退院を繰り返し、ステロイドの副作用で顔は変わり、学校生活やサッカーからも少しずつ遠ざかっていく。担当医の芦田は、希望を残しながらも確約しない言葉を選び、多くの患者の一人として湊を診続ける。腎生検、リツキシマブ、血漿交換、肺血栓塞栓症。病気と治療に揺さぶられながら、湊は芦田の言葉と、手首で脈を確かめる癖を覚えていく。やがて寛解し、通院を終えた湊は、20年後、小児科医となって同じ病院に戻ってくる。かつて患者だった少年が白衣を着て立つとき、医師が無意識に渡していたものの意味が、静かに明らかになる。
本文ここから
派手な病名ではない。けれど、子どもの日常を何度も奪っていく病気がある。
湊という名前の患者を、私は最初、体重の増加で覚えた。
9歳、体重の急激な増加、まぶたの腫れ。母親に連れられて外来に来たとき、湊はまだ、自分の身に何が起きているのか、うまく理解していない様子だった。私はカルテに「浮腫」「蛋白尿」と書きながら、母親の顔色をちらちらと窺っていた。
「ネフローゼ症候群の疑いがあります。詳しい検査のために、入院していただくことになると思います」
ネフローゼ症候群は、小児科の中では、決して珍しい病気ではない。白血病や先天性の心臓病のように、世間に広く知られているわけではないし、外来にも病棟にも、いつもこの病気の子どもがいるわけではない。それでも毎年、何人かは必ず入院してくる。ただ、目の前にいる家族にとっては、聞いたこともない病名であることが、ほとんどだった。
その言葉を口にする瞬間は、何年やっても慣れない。母親の顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。
「治る病気ですか」
「多くのお子さんは、治療でよくなります」
嘘ではなかった。ただ、その先に「多くの」という言葉を選んだ自分の慎重さを、我ながら少し嫌に思った。
「多くの」という言葉を、私はこの後も、数えきれないほど使うことになる。便利な言葉だった。希望を完全には奪わず、確約もしない。ただ、使うたびに、自分が何かから逃げているような感覚も、消えなかった。
入院初日、湊はベッドの上で、点滴の針を刺されるのをじっと見ていた。泣かなかった。看護師が「痛かったら言ってね」と声をかけても、「大丈夫」とだけ答えた。
「にゅういん」という言葉の意味を、湊はまだ、うまく飲み込めていなかった。ただ、母親の顔が、見る間に青ざめていくのを見て、何か良くないことが起きているらしいと、子どもながらに感じ取っていた。
大人たちが、いつもと違う声のトーンで話している。聞き慣れない言葉が、次々と交わされている。湊は、その意味を尋ねることもできず、ただ黙って、その様子を眺めていた。何が起きているのか分からないまま、何かが確実に変わろうとしている、という感覚だけが、体の奥に残った。
湊は、痛いのが平気なわけではなかった。
針が入る瞬間、本当は目を閉じたかった。でも、隣で母親が、もっと痛そうな顔をしているのが見えた。だから、目を開けたまま、「大丈夫」と言った。
母親を安心させるための「大丈夫」だということに、湊自身は、はっきりと自覚があったわけではない。ただ、母親が心配そうな顔をするのを見ると、なんとなく、自分がもっと頑張らないといけない気がした。それだけだった。
病室の天井には、シミが一つあった。3日目には、そのシミの形が犬に見えることに気づいた。4日目には、耳の形をもう少し工夫すればウサギにも見えることに気づいた。することがない時間は、そういう発見で埋めるしかなかった。
ステロイドを飲み始めて1週間ほどで、尿の泡立ちが減った、と看護師に言われた。その笑顔を見るために、湊は「痛くない」「平気」を、その後も繰り返すことになる。
入院中の1日には、決まったリズムがあった。朝の検温、朝食、回診、点滴の交換、昼食、午後は特に何もない時間が長く続き、夕方にまた検温があって、消灯になる。
回診は、いつも芦田先生が先頭に立って、後ろに看護師と研修医らしき人を連れてやってきた。湊のベッドに来ると、まず聴診器を当てて、それから決まって、湊の手首を、指で軽くつまむようにして触った。
「先生、それ、機械でも測れるよね」
ある朝、湊はモニターを指差しながら聞いた。腕には自動血圧計のカフが巻かれていて、脈拍もそこに表示されている。
「測れる。測れるけど、これは癖みたいなもんだ」
「癖?」
「機械は、たまに壊れる。電池が切れたり、コードが緩んでたり。そういう時に、指で触った感じを知ってるかどうかで、気づくのが早くなることがある」
芦田先生はそう言いながら、湊の手首から、静かに指を離した。
「脈は、機械より先に、指の方が教えてくれることがあるんだ。数字になる前の、ちょっとした変化みたいなもんだな」
湊には、正直、よく分からなかった。ただ、回診のたびに繰り返されるその仕草だけは、なんとなく覚えた。他の先生たちは、みんなモニターの数字を見て、うんうんと頷いて次のベッドに行ってしまう。芦田先生だけが、毎回、指で触ってから、数字を確認していた。
「痛くない?」
指を離すとき、芦田先生は必ずそう聞いた。湊はいつも「大丈夫」と答えていたが、その質問のタイミングだけは、なぜか嫌ではなかった。
ネフローゼ症候群は、多くの場合、ステロイドによく反応する。湊もそうだった。数週間で寛解し、退院した。
再発したのは、それから2か月後だった。ステロイドを減量していく過程での再発は、決して珍しいことではない。
「1度目の再発ですね。今回もステロイドを増量して、様子を見ていきましょう」
私はそう説明したが、正直なところ、心のどこかで少し警戒していた。発症からこれだけ早い時期の再発は、今後の経過を占う1つのサインになる。
案の定、その4か月後、2度目の再発が起きた。半年で2回の再発。これは「頻回再発型」の診断基準に該当する。
「頻回再発型、という分類になります」
私はその日、両親に説明した。
「これまでとは、何が違うんですか」
母親が聞いた。
「今後、再発を繰り返しながら治療を続けていくことになる可能性が高い、ということです。ステロイドの副作用を抑えるために、免疫抑制剤を併用することも検討していきます」
「治りにくい、ということですか」
「治療の道のりが、少し長くなる可能性がある、ということです。ただ、多くのお子さんが、時間をかけて寛解していきます」
言いながら、私はまた、あの「多くの」という言葉を選んでいる自分に気づいた。それ以外の言い方を、私はまだ見つけられずにいた。
本当は、湊自身にも、もっと直接、声をかけたい気持ちがあった。ただ、何を言えばいいのか分からず、結局、検査値の話に逃げてしまうことが多かった。
そこから、湊にとって、再発と寛解を繰り返す日々が始まった。
ステロイドの減量を試みては再発し、また増量する。その合間に、シクロスポリンという免疫抑制剤も併用することになった。学校を休みがちになり、退院してもすぐにまた外来、という生活が続いた。
入院と退院を繰り返すうちに、湊は、自分が何回入院したか、正確な数を数えなくなっていた。最初の頃は、指を折って数えていたのに、いつからか、それをやめていた。数えたところで、何かが変わるわけではない。そのことに、気づいてしまったからだった。
学校の友達と話す内容も、少しずつずれていくのを感じていた。みんなが夏休みの旅行の話をしている時、湊は、夏休みのほとんどを病室で過ごしていた。それを不幸だと思っているわけではなかったが、話を合わせるのに、以前より少し力がいるようになっていた。
その年の秋、学校で遠足があった。行き先は、隣町の牧場だった。バスに乗って、みんなでソーセージ作り体験をする予定だと、クラスの連絡帳に書いてあった。
湊は、その日、入院中だった。遠足の朝、病室のベッドで、連絡帳に挟まれていたプリントをもう一度読み返した。行けないことは、もう分かっていたことだった。それでも、朝になって改めて実感すると、思っていたより堪えた。
昼過ぎ、同じクラスの友達が、母親を通じて写真を何枚か送ってくれた。牧場の動物、みんなで作ったソーセージ、笑っている顔。湊はその写真を、何度も見た。見るたびに、行きたかった、という気持ちと、見なければよかった、という気持ちが、同時に湧いた。
その日の夕方の回診で、芦田先生が病室に来た。湊は、スマホの画面を伏せた。
「何、見てたんだ」
「別に」
「別に、って顔じゃないけどな」
湊は少し迷ってから、写真を見せた。芦田先生は、画面を覗き込んで、しばらく黙っていた。
「行きたかったな」
慰めるでもなく、ただそう言った。湊は、頷くことしかできなかった。
「来年は行けるように、今、頑張ってるんだもんな。今年は、しょうがない」
「うん」
「悔しいのは、悔しいでいいんだぞ。無理に納得しなくていい」
その言い方が、湊には少し意外だった。「元気出して」でも「また来年行けるから」でもなく、悔しい気持ちをそのままにしておいていい、と言われたのは、初めてだった。
「先生も、なんか悔しかったことある?」
「そりゃあるよ。人並みに」
「教えて」
「今は内緒だ」
「なんだそれ」
湊が、久しぶりに、少し笑った。芦田先生は、それ以上は何も言わずに、次のベッドへ向かった。
半年ほど経った頃、湊の頬が、次第に丸みを帯びてきた。ムーンフェイスと呼ばれる、ステロイドの副作用の一つだ。
ある診察の日、湊が俯きながら言った。
「学校で、なんか顔変わったねって言われた」
私は少しの間、湊の顔を見た。それから、できるだけ湊の目線に合わせるように、少し屈んだ。
「それは、嫌な言い方をされたのか。それとも、ただ気づかれただけか」
湊は少し考えてから答えた。
「わかんない。笑われた感じはしなかったけど、なんか、じろじろ見られた」
「そうか。それは、嫌な気持ちになるよな」
湊が、少し驚いたような顔をした。大人からそんなふうに、まず気持ちを認められることが、あまりなかったのかもしれない。
「この丸くなるの、湊が悪いことをしたから起きてるわけじゃない。薬が体を守るために頑張ってくれてる証拠でもあるんだ。ただ、見た目が変わるのは、湊にとって嫌なことだよな。それは、そうだと思う」
「元に戻る?」
「戻る。薬の量が減っていけば、少しずつ、ゆっくりだけど戻っていく」
「ゆっくりって、どれくらい」
「正直に言うと、はっきりとは言えない。人によって違うから。でも、ずっとこのままってことはない」
湊は、それ以上何も言わなかった。ただ、俯いていた顔を、少しだけ上げた。
「先生、今の話、お母さんにもしていい?」
「もちろん。というか、俺からも話しておくよ。湊が、そのことで悩んでたって」
「じゃあ、いい」
湊は小さく頷いた。それで会話は終わったが、診察室を出ていく後ろ姿が、来た時よりも少しだけ、肩の力が抜けているように見えた。
診察室で、先生が「それは嫌な気持ちになるよな」と言ったとき、湊は少し意外だった。
大人は、こういう時、たいてい「気にしなくていいよ」か、「そんなことないよ、可愛いよ」みたいなことを言う。母親も、担任の先生も、たぶんそう言うだろうと思っていた。だから、「嫌な気持ちになるよな」と、まず認めてくれたことに、湊はどこかホッとした。
慰められるより先に、自分の気持ちが「そう思っていいものだ」と言われた気がした。
その日から、湊は芦田先生に、他のことも少しずつ話すようになった。学校で仲の良い友達のこと、入院中に見ているテレビ番組のこと、大したことではない話が多かったが、話すこと自体が、湊にとって、それまでとは違う意味を持つようになっていた。
頻回再発型と診断されてから半年ほど経った頃、また再発が起きた。今回は、いつもの再発とは、少し違う予感があった。
満量のステロイドを再開し、4週間投与を続けたが、蛋白尿は陰性化しなかった。これまでなら、2週間もすればある程度反応が見えていたはずだった。
「今回の再発は、これまでとは、ステロイドの効き方が違っています。ステロイド抵抗性の可能性を、考えなければいけない段階に来ています」
両親への説明の日、私はそう切り出した。
「これまでとは、また違うということですか」
父親が聞いた。この人がこうして質問をするのは、珍しいことだった。いつもは母親に任せて、少し後ろに控えている印象があった。
「はい。これまでは、お薬に対する反応そのものは、悪くありませんでした。ただ今回は、4週間しっかり治療しても、反応が乏しい状態です。組織のレベルで何が起きているか確認するために、腎生検を行いたいと思います」
「腎生検、というのは」
「腎臓の組織を少し採取して、顕微鏡で調べる検査です。うちの科だけでなく、泌尿器科の医師と一緒に、手術室で行います。全身麻酔をかけて、安全に処置できる体制を整えます」
「手術になるんですか」
「大掛かりな手術ではありませんが、確実に、安全に行うために、そういう体制を取っています。泌尿器科の医師が実際の採取を担当します」
母親は、しばらく言葉を失っていた。父親が、隣で母親の肩に手を置いた。
「湊には、どう説明すればいいですか」
「正直に、検査が必要だということを伝えていただいて構わないと思います。眠っている間に終わる検査だということも、伝えてあげてください。目が覚めたら終わってる、という言い方は、湊くんにとって、少し安心材料になるかもしれません」
「検査するって、先生が」
母親からそう聞かされた時、湊はまた例の「大丈夫」を言おうとして、今度は少し違うことを聞いた。
「痛いの?」
「寝てる間に終わるみたいだよ。目が覚めたら終わってるって」
「じゃあ、寝てない時は痛くない?」
「うん、痛くないと思う」
湊は少し考えてから、「じゃあ、大丈夫」と言った。今度の「大丈夫」は、以前よりも少しだけ、本当にそう思えている言葉だった。
検査前日の夜、消灯時間を少し過ぎた頃、病室のカーテンの隙間から、芦田先生が顔を覗かせた。白衣ではなく、上に薄手のジャケットを羽織っていた。
「もう帰るところだったんだけどな」
「先生、まだいたの」
「一応、確認したいことがあって」
そう言いながら、芦田先生はいつものように、湊の手首を指でつまんだ。モニターの数字とは関係なく、ただの癖のように。
「明日、朝から何も食べられないの、しんどいか」
「まあまあ」
「まあまあ、って顔じゃないけどな」
昼間と同じやり取りに、湊は少し笑った。
「先生って、なんで医者になったの」
急に聞いてみたくなった。今まで、そんなことを聞いたことはなかった。
芦田先生は、少し考えるような間を置いた。
「子どもの頃、近所に、話を最後まで聞いてくれる先生がいたんだ。それだけだよ」
「それだけ?」
「それだけ。大したきっかけじゃない」
素っ気ない答えだったが、嘘をついている感じはしなかった。湊は、それ以上は聞かなかった。聞かなくても、なんとなく分かった気がした。
「明日、寝てる間に終わるから」
「知ってる」
「終わったら、また指で確認しとくから。ちゃんと戻ってきたかどうか」
「戻ってきたかどうかって、当たり前じゃん」
「当たり前のことを、ちゃんと確認するのが仕事なんだよ」
湊は、その言葉の意味を、うまく飲み込めなかった。それでも、なんとなく、安心していいのだと分かった。
「じゃあ、また明日な」
芦田先生は、カーテンを閉めて、病室を出ていった。足音が廊下の向こうへ消えていくのを聞きながら、湊は目を閉じた。その夜は、思っていたより早く眠りに落ちた。
手術室に入る朝、湊は薄い水色の帽子をかぶせられ、ストレッチャーに乗せられた。廊下を進む天井の照明が、一定間隔で流れていくのを、湊はぼんやり眺めていた。
怖くないと自分に言い聞かせていたのに、照明の数を数えているうちに、指先が冷たくなっていくのが分かった。
手術室の扉の前で、母親と別れた。母親は笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「行ってくるね」
湊の方から、そう声をかけた。
手術室では、泌尿器科の医師が腎生検の処置を担当し、麻酔科医が全身麻酔の管理にあたった。私にできることは、ほとんどなかった。バイタルサインの管理も、針を刺す位置の判断も、私の役割ではない。
それでも、担当医として、その場に付き添うのが、うちの科の習わしだった。処置の間、少し離れた位置に立ち、泌尿器科医と麻酔科医のやり取りを見ていた。理屈の上では、私がいてもいなくても、処置の結果は変わらない。それでも、いつもの外来とは違う、手術室という特殊な場所に湊を送り出す以上、担当医の顔がそこにあることに、何かしらの意味はあると思っていた。
処置は30分ほどで終わった。麻酔から覚めた湊に、私は声をかけた。
「湊、終わったぞ。よく頑張った」
そして、いつもの癖で、湊の手首に指を当てた。脈は、落ち着いていた。
湊は、まだぼんやりした表情で、小さく頷いた。
生検の結果は、1週間後に出た。
巣状分節性糸球体硬化症、いわゆるFSGSの所見が確認された。頻回再発型の中でも、比較的治療に難渋するタイプだ。両親への説明の際、私はできるだけ噛み砕いて、それでも正確に、状況を伝えようとした。
「これまでのステロイド治療だけでは、十分な効果が見込みにくいタイプだと分かりました。次の段階として、リツキシマブという薬を検討したいと思います」
「その薬は、どういう」
「B細胞という、免疫を担う細胞の働きを抑える薬です。頻回再発型のネフローゼ症候群に対して、有効性が報告されています。ただ、感染症のリスクなど、注意すべき点もあります」
「先生」
母親が、少し間を置いてから言った。
「湊は、治るんでしょうか」
即答できなかった。データ上、リツキシマブによって寛解に至る症例は少なくない。それでも、「治る」という言葉を、確約として使うことは、私にはできなかった。
「今できる中で、一番効果が期待できる治療を、一緒に進めていきたいと思います」
母親は、それ以上は聞かなかった。ただ、小さく頷いただけだった。
診察室を出ていく2人の後ろ姿を見送りながら、私は自分が口にしなかった言葉のことを考えていた。「治る」とは言えなかった。「治らないかもしれない」とも言わなかった。その中間のどこかに、私はいつも言葉を落とし込んでいる。それが誠実さなのか、ただの逃げなのか、長年やっていても、答えが出ない。
その日の午後、カルテを書いていて、湊の名前を打ち込んだところで、キーボードを打つ手が、少しの間止まった。次に何を書けばいいのか分からなくなったわけではない。ただ、何となく、その数秒だけ、手が動かなかった。
リツキシマブの投与は、その翌週から始まった。
