違和感|創作短編小説 迷わない小児科医に起きた、わずかなズレ。
彼は、外来で迷わない。
小児総合診療。大学病院。発熱、嘔吐、けいれん、発疹。どんな主訴でも、彼は数分で鑑別を絞る。身体所見を取りながら、診断を確信に変える。検査は最小限。だが外さない。
採血一つ。画像一枚。それで診断に辿り着く。
聴診器を当てる前に、すでに方向性は決まっていることも多い。診察は確認作業に近い。異常所見を拾い上げるというより、正常の中にあるわずかなズレを見つけていく。
「なんでそこを疑うんですか?」
研修医が聞く。
彼は少し考えてから言う。
「なんとなく、かな」
周りは笑う。
彼はそれ以上は言わない。
だが外来が終わったあと、同じ研修医にだけ説明する。
「さっきの子、呼吸数が少し多かっただろ。あと、親の話と子どもの反応が少しズレてた。ああいうのは、軽く見ない方がいい」
研修医が頷く。
彼は続ける。
「その場で全部言うと、考えなくなるからな」
それが彼のやり方だった。
「なんとなく」は、思考を止めるための言葉ではない。思考を始めさせるための言葉だった。
以前、夜間に来た発熱児がいた。診察した全員が帰宅でいいと判断した。ぐったりもしていない。バイタルも安定している。
彼だけが言った。
「帰さない方がいい」
理由は聞かれた。
彼は少しだけ考えてから言った。
「なんとなく」
その子は、その夜に急変した。
あとで彼は説明した。
「視線の合い方が違った。あれは、普通じゃない」
誰も気づかなかった所見だった。
別の日の外来だった。
発熱と軽いぐったり。
どこにでもいる子だった。
診察した医師は皆、「様子見でいい」と言った。
彼だけが首を傾げた。
「これ、違う」
そう言って、そのまま入院にした。
検査はほとんど異常がなかった。
だが、夜になって状態が崩れた。
脳症だった。
「なんでわかったんですか?」
あとで聞かれて、彼はいつも通り答えた。
「なんとなく」
だがそのあと、研修医にだけ説明した。
「表情の変わり方が遅かった。ああいうのは、見逃すと怖い」
その言葉を、研修医はメモしていた。
AIが導入された今でも、彼はほとんど使わない。「見ればわかる」。それだけだ。
小児科の中でも、一目置かれる存在だった。
――その日までは。
朝のカンファレンス。彼は遅れて入ってきた。珍しいことだった。白衣のボタンが一つずれている。椅子に座るとすぐにカルテを開く。話を聞いていない。
「先生?」
誰かが声をかける。
彼は顔を上げる。
「ああ……ごめん」
それだけ言って、また画面に目を落とす。その視線は、いつもと違っていた。焦っている。明らかに。
議論が進んでいるのに、彼は口を挟まない。いつもなら一言でまとめる場面でも、何も言わない。代わりに、時計を見る。それを何度も繰り返す。
看護師が隣で小さく言う。
「今日、なんか変じゃないですか」
誰も否定しなかった。
午前の外来。彼はいつも通り診察する。発熱児。咳。嘔吐。診断は的確だった。
だが、どこかおかしい。
診察の合間に、何度も時計を見る。電子カルテを閉じたあと、一瞬だけ止まる。次の患者の名前を呼ぶまでに、わずかな遅れがある。
ある患児の診察中、彼は手を止めた。
「……何かがおかしい」
小さく呟く。所見は揃っている。診断も合っている。それでも、何かが引っかかる。
もう一度診る。
呼吸。
皮膚。
反応。
視線。
「……いや」
小さく首を振る。
「大丈夫」
そう言って診察を終えた。
「……先生、今日ちょっと変ですよね」
誰に言うでもなく、看護師が小さく呟いた。
その言葉に、誰も答えなかった。
次の患児は、ぐったりした2歳児だった。熱は高いが、反応はある。どこにでもいる発熱児だ。
彼は診る。
呼吸。
皮膚。
反応。
視線。
ほんの一瞬だけ、手が止まる。
「……」
いつもなら、この時点で決まる。
だが今日は違う。
「採血、いこう」
研修医が戸惑う。
「え、そこまでしますか?」
彼は答えない。
結果は、異常なしだった。
「やっぱりウイルスですね」
研修医が言う。
彼は頷かなかった。
さらに次の患児は、腹痛だった。軽症にも見えるが、表情がわずかに違う。
彼は腹部を触る。圧痛は軽い。反跳痛もない。だが、手を離すタイミングが少し遅れる。
「……」
一瞬だけ迷う。
「経過見よう」
それだけ言って診察を終えた。
その判断が正しかったかは、誰にもわからない。
昼。医局。彼は研修医と向かい合って座っていた。
弁当は開かれていない。
「先生、さっきの腹痛の子、やっぱり何かありました?」
研修医が聞く。
彼は少しだけ考える。
「……微妙だな」
それ以上は言わない。
スマートフォンを見る。
時間。
また画面を見る。
何かを待っている。
午後。救急外来。ぐったりした乳児が運ばれてくる。発熱。哺乳不良。周囲がざわつく。
彼が診る。一瞬で全体を見渡す。皮膚の色。呼吸。反応。
「採血。血培も」
間髪入れずに指示が飛ぶ。
「抗菌薬、先にいれよう」
迷いはない。
その動きだけは、いつも通りだった。
数時間後。結果は敗血症。初期対応は完璧だった。
「さすがですね」
研修医が言う。
彼は頷くだけだった。
処置が終わったあと、彼は一人でカルテを見ていた。
敗血症。
正しかった。
それでも、どこか落ち着かない。
何度も同じ画面を開いては閉じる。
「……違う」
何が違うのかは、自分でもわからなかった。
だが、そのあとすぐに時計を見る。
夕方。外来が終わる。彼は立ち上がる。白衣を脱ぐ。ポケットの中を確認する。スマートフォン。財布。
同僚が声をかける。
「先生、今日飲み会どうします?」
「行かない」
即答だった。
「用事ある?」
少し間があった。
「ああ」
それだけ言って、彼は歩き出す。
エレベーター。一人。扉が閉まる。その瞬間、彼の表情が変わる。焦燥。明らかな焦り。
外に出る。彼は足早に歩く。
スマートフォンを見る。
時間。
設置情報。
履歴。
その台の情報は、すべて頭に入っていた。
彼が好きだったアニメ。初めてのパチンコ化。初日に行けなかった。その後も打てていない。今日、ようやく時間ができた。
逃したくなかった。
店に入る。一瞬だけ全体を見渡す。
回転数。履歴。直前の挙動。
必要な情報を拾い上げる。まるで身体所見のように。
迷いはない。
一直線に歩く。
一台だけ、空いていた。
彼は座る。ゆっくりとハンドルに手を置く。小さく息を吐く。
そして呟く。
「やっぱりここか」
その表情は、一日中見せていたものとは違っていた。
すべてを見通したあとの、いつもの顔だった。

*もちろんフィクションです。
私も近いことしてますがこんな優秀じゃないです。
