
「上手にいける」だけが華道じゃない――中学生に教えようとして、気づいたこと
私は長い間、「上手にいけること」を目標に華道を続けてきた。
先生に褒められる形。
バランスの取れた枝ぶり。
美しく見える角度。
そうしたことを積み重ねながら、少しずつ技術を身につけてきた。
もちろん、それは大切なことだと思う。
しかし私は気づいてしまった。
自分は、池坊が大切にしてきた考え方を十分に理解しないまま花をいけていたのではないか。
教えようとして、壁にぶつかった
中学校の華道部を教えることになった。
「なぜこの枝をここに置くのですか?」
「なぜこの高さなのですか?」
子どもたちは純粋に質問してくる。
そのたびに私は言葉に詰まった。
「なんとなく、こっちの方がきれいだから」
そう答えることはできる。
しかし、それだけでは何か足りない気がした。
技術は身についている。
けれど、なぜそうするのかを自分の言葉で説明できない。
そのことに初めて気づいた。
そして同時に、技術だけを追いかけていると、どこかで立ち止まってしまうのではないかと思った。
「なんとなく綺麗」の先へ進むためには、別の学びが必要だった。
考え方を知ると、「問い」が生まれる
それから私は、花伝書や池坊の考え方を改めて学び始めた。
「いける」という言葉の意味。
花と空間の関係。
調和という考え方。
学べば学ぶほど、花の前に立つ時間が変わっていった。
以前は、
「どこに入れればきれいに見えるか」
を考えていた。
けれど今は、
「この花の良さは何だろう」
「どうすれば、この花を最も生かせるだろう」
という問いが生まれるようになった。
考え方を知ることで増えたのは知識ではない。
問いだった。
一本の枝を前にして、
ただ置き場所を探すのではなく、
その枝が持っている魅力は何かを考える。
その問いが、花との向き合い方を深くしてくれる。
私自身、技術ばかりを追いかけていた
華道を続けていると、いつの間にか技術ばかりを追いかけてしまうことがある。
もっと上手になりたい。
もっときれいにいけたい。
それは決して悪いことではない。
むしろ上達するためには欠かせない。
ただ、私は最近思う。
技術は目的ではなく、花を生かすための手段なのではないかと。
どれだけ高度な技術があっても、花と向き合わなければ作品は深くならない。
反対に、経験が少なくても、一輪の花を真剣に見つめた時間には、その人なりの価値がある。
何を感じたのか。
何を見つけたのか。
その花をどう生かそうとしたのか。
私は、そこに華道の面白さがあるように思う。
中学生だからこそ伝えたい
中学生に華道を教える意味を、最近こう考えている。
技術は後からでも学べる。
けれど、自分で問いを持つ経験は早いほど良い。
「なんでこの枝をここに入れたと思う?」
そう聞くと、子どもたちは真剣に考える。
答えは一つではない。
それでいい。
自分なりに考え、自分なりの理由を持つことが大切だからだ。
その経験が残っていれば、大人になって華道と再会したとき、きっと違う景色が見えると思う。
なりたい講師像
私がなりたいのは、
「上手にいけさせる先生」
ではない。
花の前で問いを持てる人を育てる講師
でありたい。
教えることで、私自身も問い続けている。
花について。
美しさについて。
調和について。
そして、人を生かすということについて。
技術を磨くことは大切だ。
けれど、それだけでは足りない。
考え方を学び、問いを持ち続けること。
その両方があって、花はもっと深くなる。
中学生に教えようとして、私はそのことを教えられた気がしている。