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♯72セカンドシーズンー好きな人を、真っ直ぐに。ー

    第72話 大人になるって、ハードル高い


    その後の時間は、静かに穏やかに過ぎていった。

    昨日のバーベキューの残りを温めて、スーパーで買ってきた惣菜を並べて。
    特別なことなんて何一つない、ありふれた食事のはずなのに、なぜかその時間だけが少しだけ現実から浮いているみたいに感じられた。

    他愛もない会話をして、笑って。
    いつもと同じようなやり取りのはずなのに、ほんのわずかな“間”が、時折ふたりのあいだに落ちる。

    食事を終えたあと、陽向はソファに腰を下ろして本を開いた。
    ページをめくる指先はいつも通りのはずなのに、ふとした瞬間に動きが止まる。
    視線は文字を追っているのに、頭の中ではまったく別のことを思い出してしまうから。

    すぐ側では、俊輔がノートパソコンに向かい、エッセイの続きを仕上げていた。
    キーボードを打つ音が、静かな室内に一定のリズムで響く。

    お互い、別のことをしているはずなのに。
    同じ空間の空気だけが、どこかひとつに繋がっているような、不思議な感覚。
    ふとした拍子に視線が重なって、すぐに逸らしたり。
    何でもないはずの距離が、急に近く感じたり、逆に遠く感じたり。
    触れていないのに、触れてしまったみたいな感覚だけが、身体のどこかに残っていて。
    あの夜と、あの朝を、どちらからともなく思い出しては、言葉にしないまま飲み込んでいく。
    何も変わっていないはずなのに、もう元のままではいられない気がしていた。

    それでも二人は、何も言わなかった。

    踏み込めば、壊れてしまうかもしれないもの。
    名前をつけてしまえば、もう引き返せなくなるもの。
    その境界線の上に立ったまま、ただ隣にいる。
    笑って、誤魔化して、いつも通りをなぞるように過ごして。

    「やばー!このシリーズ面白いんだけど、今もう読めないのかなぁ…」

    「結構昔の本だからねぇ…良かったらシリーズ3作とも東京持ってく?」

    「え!いいの?」

    「うん。僕がまた家族と来る時に戻しておくよ。」

    「わー!めっちゃ嬉しい!」

    「帰ってから読んでね?電車で本読まれてたら寂しい」

    「だから、そんな事するわけないでしょっ!」

    そうして、何事もなかったかのように。
    けれど、何もなかったわけではないまま——

    二人は東京へと帰った。




    帰宅後────────。




    陽向は、母親が仕事から戻る時間ギリギリで自宅へ滑り込んだ。
    靴を揃える手が、わずかに震えている。
    急いで自室に駆け込み、部屋着に着替え、鞄の中身を隠す。

    証拠は隠滅。
    痕跡も残していない。

    それでも胸の奥だけが、まだ熱を持ったまま、静まらない。
    ベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。

    “とっくに自室で寛いでました感”。

    何度も頭の中でシミュレーションしてきた、完璧な日常の顔を作る。
    けれど、少しでも気を抜けば、あの夜と、あの朝の記憶が一気に溢れてきそうで。
    陽向は無意識に、ぎゅっと指先を握り締めた。

    ガチャ

    一階から、玄関の扉が開く音。

    「ただいまー」

    いつも通りの、母親の声。

    鍵を置く音。
    廊下を進む足音。
    レオに話しかける、明るく高い声。

    なにもかもが、変わらない。
    しばらくして。

    「ひなー?帰ってるのー?」

    階下から呼ぶ声は、普段と同じ調子だった。

    (よし。秘密のデート、ミッションクリアだ!)

    「はーい!いるよー!」

    明るく返事をして、陽向は階段を駆け下りる。

    ガチャ

    リビングの扉を開く。
    テーブルに座る母親が、ゆっくりとこちらを振り返った。
    その目を見た瞬間、胸の奥がひやりと冷える。



    「陽向、そこに座りなさい。」



    一気にドスの効いた低い声。

    いつもと同じ空間のはずなのに、空気だけが一変する。

    陽向は、一歩も動けなくなった。
    血の気が、音もなく引いていく。

    理由も証拠も分からないのに、不安が確信として胸に落ちる。

    「……はい……………」

    小さく返事をして、椅子へと腰を下ろした。




    ────────。




    翌朝。

    「はぁ〜〜〜……」

    玄関先。
    朝の空気はひんやりしているのに、陽向の吐く息だけが妙に重く、ぬるく感じられた。

    ほうきを動かすたび、乾いた砂がシャッ、シャッ、と音を立てる。
    その単調なリズムに紛れて、ため息が何度もこぼれ落ちていく。

    (…なんで……位置情報なんか……普段見ないくせに……)

    昨夜のことは、思い出したくもない。
    けれど、頭の中では何度も繰り返される。

    (あーもう…ガチでやらかした……)

    自分でも分かるくらい、顔に疲労が出ていた。

    そんな中──
    隣家の玄関扉が、ガチャリと音を立てて開いた。

    (……げ。)

    一瞬で、嫌な予感が背筋を走る。

    「わ、お前……なんでこんな朝早くから玄関の掃除なんかしてんの?」

    聞き慣れた声。
    一番、今この瞬間に会いたくない相手。

    陽向の身体が、ぴたりと止まる。
    逃げたい。
    でも、ここで背を向けたら逆に怪しい。

    ゆっくりと、ぎこちなく顔を上げる。

    「いやぁ〜……まぁ……これには色々あって……」

    視線を泳がせながら、曖昧に笑って誤魔化す。
    けれど、その誤魔化しが通用しない相手だということを、陽向自身が一番よく分かっていた。

    沈黙を裂くように──

    ガチャ。

    続け様に、自宅の玄関扉が開いた。

    「ひな!そこいつまでやってんの?私もう出るから、この後洗濯回す時についでにリビングのカーテンと、ラグも洗っておいてね」

    「え〜〜〜〜〜〜しんど〜〜〜〜〜〜〜」

    陽向が項垂れるのをよそに、早苗は玄関前で部活リュックを抱えて立っていた隣家の息子に声をかけた。

    「あ、朔おはよ!これから部活?」

    その声音は一転して、明るい。

    「おはよーさなちゃん、なんで普段なんもしねーこいつが家の手伝いなんかしてんの?」

    陽向の全身に、嫌な汗が一気に吹き出す。

    「もー朔、聞いてよー!こいつさぁ──」

    早苗が喋り出したその瞬間。

    「わーーー!!!だめだめだめ!!絶対言わないでーーー!!!」

    反射だった。
    ほぼ叫び。
    空気が一瞬で張り詰める。

    「は?なに?」

    朔也の目が、鋭く細められる。
    完全に“疑いの顔”。
    しまった、と思ったときにはもう遅い。

    そんな陽向の声に対して、早苗はピシャリと吐き捨てた。

    「うるさい。あんたが私に指図する権利とかないから」

    終わった。
    何もかもが終わりだ。

    こうなったら逃げ場はない。
    誤魔化しも通じない。
    何かが確定した音がした気がした。

    陽向は視線を落としたまま、小さく息を吐く。

    「……あたし……洗濯まわしてこよぉ〜…」

    そのまま、逃げるように背を向ける。
    玄関をくぐり、室内へ。

    外の空気が、背後でぱたりと閉じた。

    胸の奥だけが、まだ外に置き去りにされたまま、ざわざわと騒ぎ続けていた。



    玄関の外。



    「──ってわけでさぁ、本当なめてるでしょ?朔からもあの子に厳しく言っといてやって!」

    朝の空気はもうすでに温度を帯び始めていた。
    じわじわと照りつける日差しの中で、早苗の声だけがやけに軽く、明るく響く。

    「………………………。」

    早苗のその言葉を真正面から受けた朔也は、あまりの衝撃で完全に固まっていた。
    頭の中に入ってきた情報が、処理しきれずにそのまま滞留している。

    (母親に嘘…?…彼氏と……伊豆………泊まり……?)

    断片的な単語だけが、ぐるぐると回る。
    一瞬、意味が分からなかった。
    いや、分かりたくなかった。
    理解した瞬間、何かが壊れる予感がしたから。

    それでも、早苗の口から語られた事実は、容赦なく現実として突きつけられる。

    身体だけが、岩のように硬直していく。
    血の気が、音もなく引いていく。

    早苗はそんな朔也の様子など気にも留めず、いつもの調子で言葉を締めた。

    「じゃあ部活、熱中症気をつけてね!」

    次の瞬間には、早苗は自転車にまたがり、朝の光の中仕事へ向かい滑り出していく。
    ペダルを踏む音が、軽やかに遠ざかっていく。

    残されたのは──

    静寂。

    セミの声が、やけに大きく耳に刺さる。
    じりじりとした暑さだけが、現実を突きつけてくる。

    「……………ぐ………ぐぐぐ………」

    奥歯を、強く噛み締める。
    喉の奥で、何かが引っかかる。
    言葉にならない感情が、胸の奥から押し上げてくる。

    (咲の家に泊まりに行くだなんて…あいつにそんな悪知恵が働くわけがない……咲の入れ知恵か…)

    その瞬間。
    ブチッ、と何かが切れた。

    「…あのクソバカが……っ!」

    低く、押し殺した声。
    朔也の拳が、ぶるぶると震える。
    視線は、さっきまで陽向が立っていた玄関へと固定されたまま。

    閉じられた扉。

    その向こう側にいる存在を、まるで今すぐ引きずり出すみたいに睨みつける。
    即乗り込みたいが、部活をサボるわけにもいかない。

    「部活から戻ったら、只じゃおかねーーーー!!!!」

    気づけば、星野家の玄関へ向かって叫んでいた。
    閉じた扉の向こうへ、ぶつけるように。
    その声は、朝の空気を震わせて、住宅街に鋭く響き渡った。

    返事はない。

    ただ、セミの鳴き声だけが、何事もなかったかのように続いていた。



    ────────。



    午後。

    自室の空気は、妙に重たかった。
    カーテンの隙間から差し込む光はやわらかいのに、部屋の中だけ時間が止まったみたいに静まり返っていた。


    その中心で——


    陽向は、正座をさせられていた。


    「さなちゃんはな!お前をずーーーーっと1人で苦労しながら育てて、毎日仕事で忙しくしながらどんな時でも弱音も吐かずに!」

    ドン、と声が落ちる。

    逃げ場はない。
    正面。
    ベッドに腰掛けているのは、朔也。

    片手には——竹刀。

    「家の手伝いも勉強もろくに出来ないお前に毎日ご飯も作っていつも家も綺麗にしてくれて!必死で塾に通わせて!高校にも第一志望に合格させて貰って!」

    ラグの上に膝をつく感覚が、じんじんと痛い。
    背筋を伸ばしているはずなのに、どこか身体の軸が揺れている気がする。

    「お前をそんな娘に育てた覚えはないっ!」

    言葉は止まらない。
    まるで、積み上げてきたものを一つひとつ叩きつけるみたいに。

    「さなちゃんはいつだって立派にお前を正しい道へとずっと導いてきたはずだ!お前のした事は、そんなさなちゃんへ対する冒涜だ!侮辱だ!裏切りだーーー!!!」

    ビシィィィィッッッ!!

    竹刀が、床へ叩きつけられた。
    乾いた音が部屋の中に鋭く響いた瞬間、ビクッと陽向の肩が強張った。

    空気が一瞬で裂けたみたいに、緊張が走る。

    陽向は、心の中でぽつりと呟く。

    (…朔也に育てられた覚えは……ないんですけど……)

    母親からならともかく、なんでこいつにここまで言われなきゃならないんだ。

    内心では毒付きが止まらない。
    なのに口から出るのは——

    「……はい……すいません…………」

    弱々しい声。
    反射的に、身体が“怒られている側”の形を取ってしまう。

    「……それで…………」

    ひと通り説教を垂れた朔也は、小さく咳払いをした。

    「…あの……藤崎先輩とは……その……」

    少しだけ声のトーンが落ちる。
    視線が、わずかに泳ぐ。

    気になって気になって気になって気になって、部活もろくに身が入らないほどだった本題の核心に触れた。

    「……変なこと……とか……してねーだろうな………」

    「は?変なことって?」

    陽向は朔也の言葉の意味を全く理解していない。
    朔也の顔が、ほんの少しだけ歪む。

    「だから…その……」

    言いにくそうに、言葉を探している。

    (なんでわかんねーんだよ!言わすなよ…)

    「…………大人の……真似事みてぇな……」

    その瞬間。
    陽向の眉がぴくっと動いた。

    「するわけないでしょ!お酒もタバコも許すわけないよっ!生徒会長なんだからっ!」

    コテッ。

    朔也の首が勢いよく曲がった。
    数秒の沈黙。
    朔也の中で、何かがストンと落ちる。

    (…こいつに……そっち系の心配はなさそうだな……)

    陽向にそれを問うのは間違いだったと、朔也は心から安堵した。
    だが、同時に別の不安が浮かぶ。

    でも──相手はどうだ?

    こいつが無自覚だから気づいてないだけで、危ない場面はあったんじゃないか。

    いくら完璧で理性的な優等生、藤崎俊輔とは言え。
    相手は所詮、高三男子だ。
    彼女と二人きりの貸切ペンションで一夜を過ごすだなんて、普通に考えたらその気が起きない筈がない。

    (あーーーーーーっ!!!!)

    朔也は思考を遮るように、ぐしゃぐしゃと両手で髪の毛を掻きむしる。

    このままだと、危ない。

    いくらこいつにその気は無くても、こいつの危機管理能力の低さでは環境リスクがあまりにも高すぎる。

    朔也は、ゆっくり息を吐いた。

    そして——決心する。

    「いいか、ひな。」

    声が少しだけ低くなる。

    「なにがあっても、どれだけ先輩の事が好きであろうと、越えてはならない“一線”というのがある。」

    「一線?」

    「高校生たるもの、高校生らしく、清廉潔白な、純粋交際をとにかく徹底してだな!断固として、高校生の分際で、高校生らしからぬ不純な行為など何が何でもあってはならないし、いくら好き同士であっても、先輩が今後なにを言おうとも、やっていいい事と悪い事があってだな──」

    ネチネチ…
    ネチネチ……

    その最中。

    陽向は正座したままで、俯きながらもゆっくりと視線だけを上げた。

    (こいつは…どの口が……言ってる……?)

    自分は去年の夏休みに高一の分際で…
    彼女と部屋で二人でいて、私に植え付けたトラウマの事を棚に上げて何を言っているんだ。

    (つーか。そもそも。キスすらまともに出来ないのに……)

    “その先”なんて、きっと死んじゃうだろうな。

    大人になるって……
    ハードルがあまりにも高すぎる。

    「高校生たるもの、青春しつつ、日々真っ当に勉学に励み、恋をしながらもお前達は生徒会役員の会長と副会長としてだな、全校生徒のお手本となるような、学校をより良くしていく為に勤め、決して絶対に、親や先生に顔向け出来ないような行いなんて言語道断!──」

    ネチネチ…
    ネチネチ………

    (将来こいつの娘になる子をガチで心底同情するわ)

    遠い未来の誰かに、勝手に哀れみを送る。

    「……はぁ〜………」

    ため息が、ぽろりと落ちた。

    その後も——
    朔也の止まらぬ説教は、数時間に渡った。


    外では、夏の音が鳴り続けているのに。

    この部屋の中だけ、まるで別の季節みたいに、重く停滞していた。



     
     
    会社員しながら子供5人の子育てに奮闘し、小説の執筆活動しています! 毎日のメイン執筆活動タイムは、話し長い部長の朝礼中と、会社のつまんない研修中です♡ 連載中「セカンドシーズンー好きな人を、真っ直ぐに。ー」 完結まで毎日更新します!

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