
『不思議なクリーニング店 ─今日という日をたたむ場所─』
「まま~。れんれん、じぶん」
ベビーカーを押す手に、息子が動く振動が伝わってくる。
家まではまだ、20分以上ある。ここで降りられるのは困る。
「え~?蓮、自分で歩きたいの~?」
薄く苛立ってしまった自分の本音を隠すように、なんだか能天気な声が出た。
座席をのぞき込むと、蓮は身をよじらせてベルトから抜け出そうともがいている。
1歳児健診で12キロと言われたときは、保健師さんまで驚いていた。
今ではもう15キロを超えている。
抱き上げるたび、「重っ」と笑ってしまうくらい。
なのに2歳児とは思えないスピードで走るから、外出時の私は常にスニーカーだ。
「ここは車が多いから、もうちょっとだけ待ってね」
「やなの~」
なるべく穏やかな声を出しながら、歩くスピードを速める。
今日行った児童館は、思ったより遠かった。
地図で見ると近そうだったのに、実際に歩いてみると細い道や坂が多くて、何度も立ち止まって道を確認することになった。
受付で自宅の場所とベビーカーで来たことを伝えると、「歩いてきたの?」と驚かれた。
部屋にはまだ開けていない段ボールが積まれたままだ。
それでも蓮が家でおとなしくしてくれるはずもなく、毎日公園や児童館を探して歩いている。
次第に声が大きくなる蓮をなだめながら足早に歩き、車通りの少ない路地を見つけて入った。
道の脇でベビーカーを停め、蓮と目を合わせるようにしゃがむ。
「れんれん、ママと、おてて繋いで歩ける?」
「はい!」
元気に返事をした彼を右手で抱きかかえて降ろしながら、ベビーカーがひっくり返らないよう、持ち手にかけていたバッグを左手で持つ。
ずっしり重いバッグを座席に移動させる一瞬の間も、蓮は油断すると私の手を払って走り出しそうだ。
左手で蓮と手を繋ぎ直し、右手でバランスを取りながらベビーカーを押し、一緒に歩き始める。
でもあとになって思えば、
あの店は急いで歩いていたら、きっと見つけられなかった。
あの日の私は、蓮の歩幅で歩いていた。
「あ、おはな」
「え?あ、ほんとだ。お花の絵があるね」
その看板は路地に入ってすぐ、建物の間にひっそりと置かれていた。
『クリーニングとハーブのお店』と書かれている。
横には、花と葉っぱがモチーフになったシンプルなイラスト。
よく見ると、道路沿いの建物と建物の間に、小さな路地があった。
飛び石のような石畳が奥へ続いている。
その先に、レンガ造りの小さな建物が見えた。
正面に黒い格子の入ったガラスの扉があり、内側にかかっている白いカーテンは右端にまとめられ、左側の扉は開いている。
店内の様子は薄暗くてよく見えないけれど、天井からおしゃれな形のランプがいくつかつり下がり、温かく光っているのはわかった。
「あ」
蓮の、小さいけれど存在感のある掌が、するりと私の手を抜ける。
気づくと彼は、たったった、と小気味いい足音を立ててお店に向かって走っていた。
「蓮、待って!だめだよ!」
慌ててベビーカーを看板の脇に寄せ、彼の背中を追いかける。
扉の中に入る前に捕まえて抱っこしようとするが、盛大な抵抗に合い、私が尻もちをつきそうになる。
2歳の男の子ってこんなに力が強いのか、と毎回新鮮に驚いてしまう。
「こんにちは」
見上げると、優しそうな女性がお店の入り口に立っていた。
蓮の方に身をかがめ、「僕、どうしたの?何歳ですか?」と話しかけてくれる。
私の母よりもちょっと若いくらいだろうか。
蓮は、少し自慢げに自分の手を彼女の顔の前に差し出す。
まだうまくできない、蓮の小さなピースサイン。
「2歳?3歳かな?」
「2歳なんです、大きいんですけど……」
いつものように私が答える。
「2歳!よかったら、中に入る?僕が喜びそうなものは、ないんだけどね~」
「いえ、でも、この子がいろいろ触ったり壊したりしたらいけないので……」
慌てる私に微笑みかけながら、彼女は、どうぞ、というような手ぶりをして店内に歩いていく。
つられてお店に足を踏み入れると、中は思ったよりも明るかった。
打ちっぱなしみたいなコンクリートの壁の上部には窓が並び、外の光がたくさん入っている。
ドアを入ってすぐ、右手に置かれた小さな丸い木のテーブルには、ピンクのチューリップが飾られていた。
花が生けられているのは白いホーローのピッチャー。
隣には同じ素材の白いお皿があり、見慣れない水晶みたいなガラス細工が置かれていた。
お店は奥へ細長く続いていて、 壁際の木の棚にはスパイスやハーブのようなものが入った瓶が静かに並んでいる。
洗いたてのシャツみたいな清潔な匂いの奥に、ほのかに草花のような香りがした。
そして正面にはカフェバーみたいな雰囲気の、木でできたカウンターがあった。
「いらっしゃい」
そこで何か作業をしていた女性が、こちらに向かって顔を上げて言った。
「あ……こんにちは。あの、すみません、息子が騒いでしまって……」
「こんにちは!」
恐縮する私と、蓮の元気な挨拶が重なる。
「店長、可愛いお客様がいたから、入ってもらいましたよ」
私たちを招き入れてくれた女性が、”店長”に声をかけ、こちらを振り返って言葉を続ける。
「ここ、一応クリーニング店なんだけど、いろいろやっていて。
今の時間はあまりお客さんもいないし、良かったら気にせずゆっくりして行ってね」
彼女はカヨコさんという名前で、ここで週に3~4回仕事をしているらしい。
確かに、カウンターの後ろにあるドアの奥には、天井からたくさんの洗濯物がつり下がっていた。
カウンターの右手にはさらにスペースがあり、奥にはキッチンや作業台のような机、椅子なども見えた。
はっとして蓮を探すと、「中に入れておくね~」と言うカヨコさんと一緒に、ベビーカーをドアの近くに移動させていた。
お礼を言いながらも手持ち無沙汰になってしまい、私はお店の中をそっと見回す。
棚には、小さな袋や試験管のようなガラス瓶が整然と並んでいた。
落ち着いたトーンの、でも色とりどりの植物や花。パウダーのようなもの。
花屋とも理科室とも違う、不思議な色合いだった。
「ハーブティーって飲むことある?」
カヨコさんが、蓮と一緒に戻ってきた。
「あ……ティーバッグなら」
「そうなんだ。これ飲みやすいよ」
棚から一つ手に取って、私の方へ差し出す。
網目が見えないくらい細かい、レースみたいな三角形の小さな包み。
中には、黄色や赤や薄緑の粒とか花びららしきものが入っていて、光に透けて小さな標本みたいに見えた。
「きれい……」
思わず口からこぼれた。
甘いような、青いような。ふわっと草原みたいな香りがした。
お茶の葉というより、ドライフラワーとかポプリとかみたいだと思った。
「でしょう?『春のハーブティー』」
カヨコさんが笑う。
「店長がブレンドして作ってるのよ」
そのとき初めて、私は店長の方を見た。
白い洗いざらしのシャツ。
同じような素材の白いエプロン。
黒い髪をひとつに束ねている。
何かを書いていた彼女は再び顔をこちらに向け、
「今は『薫風』です」
と言った。
そして手元の伝票か何かに、目を戻す。
気づくと蓮は、店長のカウンターの横で座り込み、お店のものらしい空き箱を重ねて遊んでいた。
*
その日、私は小さな包みをひとつ買って帰った。
ラベルに書かれた『薫風』という文字の下には、小さく Kunpu とアルファベットも添えられている。
店長が作ったという、ハーブティー。
*
翌朝、毎晩帰宅が遅い夫を起こさないよう、そっとキッチンへ立つ。
しんとした薄暗い早朝の台所で、私はその袋を開けた。
最初の頃は、夫が帰るまで起きていようと思っていた。
でも蓮を追いかけて一日を終えると、寝かしつけの途中で私の方が先に眠ってしまう。
夜中、玄関の音で一度目が覚めても、体は布団から起き上がれなかった。
そのかわり、朝はまだ外が暗いうちに起き、前の日の続きを片づける。
蓮が起きる前に少しでも整えておかないと、一日が始まる前から負けてしまうような気がするから。
小さなキッチンに湯気が立つ。
『薫風』は、思っていたよりずっと優しい味がした。
薬草みたいに苦いのかと思っていたけれど、口に含むとさわやかで、体の奥の方からゆっくり温かくなっていく。
立ったまま、ひと口飲んだ。
たたんでいない洗濯物も、流しの中で重なったままのお皿も、散らかったおもちゃも、何ひとつ変わっていない。
でも、薫風の良い香りが満ちたその朝は、狭い台所が、なんだか私のためだけの場所になった気がした。
***
「サユちゃん、また朝から公園行ってきたの~?」
児童館の階段を上がって急いで靴を脱ぎ、蓮の靴も下駄箱へ押し込んでいると、顔見知りのママが笑った。
蓮と毎日がんばって出かけていたおかげで、近所に少しずつ知り合いも増えてきた。
「そうそう、ほら、ちょっとでも体力消耗させとかないと、この人元気だからさ」
その間にも蓮は裸足のまま廊下を駆けていき、プレイルームの扉を勢いよく開けた。
ママ友に挨拶してから、急いで追いかける。
体育館みたいな床には、大きな積み木やボール、乗り物のおもちゃが散らばり、思い思いに遊ぶ子どもたちの声が響いている。
奥の部屋では、小さな子がママと一緒に絵本をめくり、その横ではプラレールで遊んでいる子もいる。
午前中は親子連れでいっぱいになるこの場所は、午後になれば学校帰りの子どもや学童保育の小学生たちで賑わうらしい。
蓮は真っ先に乗り物のおもちゃ目がけて走っていく。
私はバッグを肩から下ろす前に、その背中を目で追った。
誰かのおもちゃを取っていないか。
ぶつかって泣かせていないか。
謝る準備だけは、いつもできている。
壁際に荷物を置き、先に来ていたママたちに挨拶しながら、みんなが座っているあたりに腰を下ろす。
どうやら保育園の話で盛り上がっていたようだ。
「認可に受かったら職場復帰かな」
「2歳児から入れる幼稚園もあるみたいで、ちょっと考えてる」
「私はあと1年かぁ……毎日電車乗れるか、今から心配」
みんな笑いながら話している。
保育園。
幼稚園。
復職。
それぞれの言葉の先には、1年後や2年後の暮らしが、ちゃんと続いている。
「蓮くんはどうするの?あ、でもサユさん、まだ引っ越してきてすぐだもんね」
「うん。まだ何も決まってなくて……」
話を振ってくれたママに、微笑みながら返事をする。
みんな、先の暮らしが見えている。
でも私はまだ、自分たちがどこへ向かえばいいのか、その続きを思い描けずにいた。
プレイルームに響くたくさんの笑い声を聞きながら、ふと自分のデスクが頭に浮かんだ。
付箋だらけのパソコン。
お気に入りのタンブラー。
夕方、天気が良いと赤い空にくっきり浮かぶ、高いビルのシルエット。
忙しかったけれど、あの頃の私は、確かにあそこにいた。
明日も、その次の日も、どこへ向かえばいいのかわかっていた。
そのとき、蓮がお友達と同時にボールへ手を伸ばしたので、慌てて子どもたちの方に走り寄った。
でも、相手の子が先に遊び始める。
ちょっと様子を見てからママたちの方に戻ると、もう別の話題に移っていた。
違う泣き声がして顔を上げ、立ち上がろうとしたが、どうやら今度は蓮は関係ないようだ。
ちょうど、仲良しのナツキさんがプレイルームの扉から入ってきて、ちょっとほっとした。目が合って、軽く手を振り合う。
彼女の息子ハヤトくんも、蓮同様、同学年のお友達よりひと回り以上大きい。
「おはよう!朝バタバタしてて遅くなっちゃった~」とママたちの輪の中に入ってきたナツキさんに、話しかけられた。
「来週また、『キリンさんクラス』行く?」
キリンさんクラスとは、児童館で毎週開催される年齢別クラスの名前だ。
みんなで音楽に合わせて体操をしたり、簡単な工作をしたりするのだが、蓮とハヤトくんは体が大きいこともあり、最近は一学年上のクラスに一緒に行っている。
「あ、行こうかな。ナツキさんも行く?」
「そのつもり。あそこで発散して昼寝してもらわないと、私がバテちゃうもん」
と冗談めかして答える。
ナツキさんと話している間も、視界の端にはずっと蓮がいた。
笑いながら返事をしていても、耳はどこかで誰かが泣く声を探している。
*
「また来週ね~」
用事があると言って、予定より少し早めに児童館を出た。
靴を履き替えて階段を降りると、蓮はまた公園へ向かうつもりでいるらしく、私の手を引っ張って歩いていこうとする。
「れんれん。ベビーカーに乗るよ~」
奥の手で、みんなと食べるはずだったお昼を見せると、食いしん坊の彼はこちらに戻ってきた。
蓮が食べやすいように、ラップでスティック状に握ったおにぎり。
それを、にこにこしながら食べる彼を乗せたベビーカーを押す。
”今が一番かわいい時期だもんね!”
さっき誰かが笑って言っていた。
そうなんだと思う。
本当にそうだ、と心から思う。
でも、今日が終われば、また明日が来る。
その明日は、どこに行きつくか見えないまま、ずっと続いていく。
*
足は自然と『クリーニングとハーブのお店』に向かっていた。
今週は2度目だけど、そろそろ夏のハーブティーが出るとカヨコさんが話していた。
お店の手前でベビーカーを停めて、蓮の手と口をウェットティッシュで拭いていると、「あれ?蓮くん?」と声がした。顔を上げると通りの向こうからカヨコさんが自転車でやってくる。
そして「近くのおばあちゃんのところへ、クリーニングが終わった服、届けてきたの」と言いながら、お店の入り口に自転車を停めた。
「あの、こないだ伺った夏のハーブティー、気になってて」
「ああ。まだできてないみたいなんだけど……店長、来週くらいにはって言ってたよ」
そう言いながら、お店の方を振り向いたカヨコさんの横をすり抜けて、蓮は迷うことなく店長のカウンターの前まで歩いていった。
店長はこちらを向いて「いらっしゃい」と言うと、足元にあった木箱を少し横へ寄せた。
蓮はそれを見つけると、当たり前みたいな顔で積み始めた。
「もう覚えちゃったねえ」
カヨコさんが笑う。
私は思わず「すみません」と言ったが、店長は何も答えない。
お店の入り口に置かれた背の高い透明なガラスの花器には、細い枝が一本だけ生けられていた。
小さな葉が何枚もついていて、外から入る風にかすかに揺れている。
6月になると、駅前も公園も店先も紫陽花ばかりになる。
それも好きだった。
でも、ここには今日も紫陽花はなくて、そのことがなんだかこの場所らしいと思った。
蓮が、床に寝っ転がって遊び始めた。
思わず店長の方を見ると、眉をひそめることもなく、蓮の頭上に置いてあったスプレーボトルを、カウンターの端から棚の上へ戻した。
それから何事もなかったように、奥にあるアイロン台の方へ向かった。
私はまた「ありがとうございます」と言いそうになって、飲み込んだ。
口癖のようになっているいつもの言葉たちが、この店では、うまく出てこない。
*
その日は児童館ではなく、公園へ向かう途中だった。
ちょうどお店の近くを通りかかったとき、遠くに店長の姿が見えた。
前の通りを、箒で丁寧に掃いている。
タイミング良く信号が変わったので、なんとなくそちらに足が向く。
そしてお店に戻る店長の背中を追うように、小道の奥を覗いた。
ガラス戸を開け放った店長は、小さなお香に火をつけた。
手でそっとあおいで火を消すと、細い煙が立ちのぼる。
煙は、入り口のテーブルに置かれた透明なガラス細工から、静かに揺れながら流れていく。
あれがお香立てなのだと知ったのは、何度か通うようになってからだった。
花も、また別のものに替わっていた。
手早く床を掃き、玄関先を水で流し、濡れた布でガラスを拭き始めた店長と、目が合った。
「あ……おはようございます」
私が挨拶をすると、店長は軽く会釈した。
「おそうじー!」
蓮が箒を動かすような手振りを真似る。
店長の口元が少しだけ緩んだ気がした。
掃除を続ける店長に頭を下げ、そのまま公園へ向かった。
*
いつの間にか 、夕方近くになっていた。
結局、公園で遊び足りなかった蓮を連れて、児童館もはしごする羽目になった。
本人は満足したのかベビーカーでぐっすり寝ていて、静かだ。
今寝たら、夜にはまた元気になってしまう。
わかっているのに、起こす気にはなれなかった。
ほっとしたような憂鬱なような中途半端な気分でお店の前を通ると、私たちを見つけたカヨコさんが出てきて「できてるよ」と手招きした。
店に入ると、今日はカウンターの前に女性のお客さんがいた。
受け取りにきたらしいブラウスを掲げて、店長と話してる。
「やっぱりお願いしてよかった。ここの仕上がり、違うんですよ。着ると気持ちいいのよね」
「ありがとうございます」
店長はふっと目を細めて言った。そして私たちに気づき、「いらっしゃい」と言う。
「ちょっと待ってね」
カヨコさんは、お店の奥からティーバッグが入った籠を持って戻ってくると、作業台でたたみかけだった衣類の山を腕で端へ寄せた。
「店長ね、季節ごとに全部変えるのよ。今回はレモンバームが入ってて、この時期さっぱり飲めるから人気なの」
そういえばさっきのお客さんも、最後にハーブティーも買って、お店をあとにしていた。
カヨコさんが袋を用意してくれているあいだ、私はなんとなくカウンターの奥へ目を向けた。
ぱん。
店長が、白いシャツを広げた。
袖をまっすぐに引く。
指先で、小さなしわをひとつずつ伸ばしていく。
ハンガーへ掛ける。
次の一枚も、また同じ。
少しも急がない。
誰も見ていない。
それでも、店長は一枚ずつ同じ手つきで服を整えていた。
*
その日買った小さな袋には『涼風』と書かれていた。
初めは、毎朝キッチンで立ったまま飲んでいた。
流しには洗い物。リビングには洗濯物と、昨日片づけられなかったおもちゃ。
飲み終わる頃には、すっかり冷めてしまっていることも多かった。
でも6月に入る頃には、湯気の立つカップを持って、ほんの5分だけベランダへ出るようになっていた。
雨の日も多いけれど、私はこの時期が好きだ。
1年で一番明るくなるのが早くて、朝早くひとりで起きても寂しくない。
それに、なんだか自分だけ一日を早く始めて得してるみたいな気持ちになる。
ベランダから見える道には、まだほとんど人通りがなく、たまにランニングや犬の散歩をしている人が通るだけ。
遠くで、動き始めた電車の音がする。
とても静かだ。
蓮が起きると、窓は閉める。
お隣から声が響くと言われて以来、それが朝の決まりになっていた。
洗濯物も部屋の中でハンガーに掛けてから、まとめて外へ出す。
窓を開ける時間は、短い方がよかった。
でもこの5分だけは、風も光も、私ひとりのものだった。
あの店のことは誰にも話していない。
別に隠しているわけじゃないけれど、自分だけの秘密の場所にしておきたかった。
***
スーパーの惣菜売り場で、蓮が立ち止まった。
「ごはん」
そして小さな指が、パックに入ったコロッケをぷにっと押した。
私は蓮の方にかがみ、目を合わせようとした。
「れんれん。買う前のものは触っちゃだめなんだよ」
蓮はコロッケを見つめたまま黙っている。
「……これはママが買うから、一緒にお店の人にごめんなさいしよう」
その瞬間だった。
「いやだあ!」
蓮が叫んだ。
それだけでなく、床に座り込み、大きな声で泣き始めた。
「怒られるわけじゃないよ。でもね、ごめんなさいはしようね」
蓮は泣き続ける。
またうるさいって思われる。
早く泣きやませなきゃ。
周りの人が見てる。
ちゃんとしなきゃ。
頭の中にいろいろな声がかけめぐり、肩に力が入る。
私はそのまま抱き上げず、一緒に床へしゃがみ込んだ。
そして蓮の背中をゆっくりとさすった。
撫でながら、自分も呼吸を整えた。
このままだと、怒鳴ってしまいそうだった。
そんな自分が、一番こわかった。
暗い顔と泣き顔でレジに向かった私たち親子に、店員さんは優しく「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
考えてみれば、別にわざわざ謝る必要もなかったのかもしれない。
蓮に注意して、何も言わずコロッケだけ買えば良かったのかも。
そうしたらこんなに疲れなくて済んだかもしれない。
エコバックにのろのろと買ったものを詰め、最後にコロッケを入れて、スーパーを出ようとしたときだった。
「サユちゃん」
名前を呼ばれ振り向くと、カヨコさんが立っていた。
少し困ったような、それでいてやわらかい笑顔で立っている。
「さっき見てた」
その一言に、私は思わず背筋を伸ばした。
多分、緊張した顔をしていたと思う。
カヨコさんは静かに続けた。
「……毎日、ちゃんと向き合ってるのね。
蓮くんも、お店の人に自分でごめんなさいできて、すごいねぇ!」
思わず蓮と顔を見合わせたその瞬間、私の中で何かがほどけた。
お礼を言うより先に、涙が一粒こぼれていた。
「あ……」
慌てて目元をぬぐう。
泣くつもりなんてなかった。なんで泣いてるんだろう。
「喉乾いたでしょう」
そう言って、カヨコさんは私の返事を待たずに自動販売機の方へ歩いていき、小銭を入れながら振り返る。
「何飲む?」
「……コーラ」
自分でも意外だった。
普段なら「大丈夫です」と断っていたと思う。
今日は、それより先に、コーラが出てきた。
「え、コーラ?」
「……なんか今日はコーラ、が飲みたいです」
自分で言っておきながら、おかしくなった。
ふたりで小さく笑う。それだけで、少し息がしやすくなった。
スーパーの脇にある小さなベンチへ並んで座る。
蓮は大騒ぎしたことなんてもう忘れたみたいに、コロッケの入った袋をのぞき込んでいる。
コーラを一口飲む。喉で感じるかすかな痛みが、気持ち良かった。
「……なんか私」
気づくと、言葉がこぼれていた。
「一日終わると、今日も終わっちゃったって思うんです。私、何をしたんだろうって」
カヨコさんは何も言わなかった。
「毎日、すごく忙しいんです。朝起きて。気付いたら夜で。一日なんて本当にあっという間で。ちゃんとやってるつもりなんです。でも」
自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
「……何も、できてない気がするんです」
そこまで言って、言葉が続かなくなった。
胸の奥にあるものを、自分でもうまく説明できない。
しばらく黙っていると、カヨコさんが小さくうなずき、
「そっか」
と言った。そして少し間を置いて、
「今日は、疲れたよね」
と続けた。
私は黙ってうなずく。
「……でもやっぱり、ちゃんと謝れて、良かったです」
私の言葉を聞いてカヨコさんはゆっくりと微笑んだ。
その後、私の缶を見て言った。
「コーラ、ぬるくなっちゃうよ。」
ふふ、と思わず声を出してしまう。
さっき泣いてしまったことが、自分でも少し不思議だった。
*
カヨコさんと別れ、家へ帰る道を蓮と手をつないで歩く。
夕方の、スーパーからの帰り道。
いつもなら「ご飯作らなきゃ」「お風呂どうしよう」「寝かしつけ、何時になるかな」と、気が急いてしまう時間。
「ママ、いたいの?」
と蓮が聞いてきた。さっき泣いているところを見たからだろう。
私は小さな声で答えた。
「大丈夫、痛くないよ」
蓮が私の手をぎゅっと握る。私も握り返す。
なんか、久しぶりだな、こんな気持ち。
そう思った。
ちゃんと、自分の話をした気がする。
夕暮れの風が頬を通った。
いつもと同じ帰り道なのに、今日は少しだけ歩きやすかった。
夕陽も、なんだか優しく見えた。
***
プレイルームいっぱいに、泣き声が響き渡っていた。
その声だけで、胸の奥が冷たくなる。
人の間をすり抜けると、見えた。
泣いている男の子。
そしてその前に、蓮が立っていた。
「蓮?!」
駆け寄ると、蓮は口を真一文字に結んだまま、まっすぐ、泣いている男の子を見ていた。
「蓮、どうしたの?!……すみません、うちの子が」
目の前の親子を見る。
確か、たまにキリンさんクラスで一緒になる、ひとつ年上の男の子だ。
「おもちゃを取り合っていて、その子が」
そうお母さんに言われて改めて相手の男の子を見ると、首元に、赤い線が入っている。
「……蓮がひっかいたんですか?…あの、本当に…申し訳ありません」
謝ってから、蓮の肩をつかんで顔をのぞき込もうとする。
「蓮。蓮がお友達をひっかいたの?」
蓮は何も言わない。
「蓮!!ごめんなさい、しないと」
そのとき、相手のお母さんがこちらを向いて言った。
「見てなかったんですか?」
その一言で、頭が真っ白になる。
「……はい」
なぜか、今朝のことが浮かんだ。
寝不足で少し体が重かったこと。
蓮が騒ぎ出して、急いで作ったお弁当。
マンションを出たとき、もう夏みたいだと思った空。
帽子を持ってくればよかった、と歩きながら思ったこと。
「本当に一瞬のことだったから」
誰かの声がした。返事はできなかった。
泣き続ける男の子を抱っこしたまま、相手のお母さんが立ち上がった。
蓮はまだ、何も言わない。
「本当に、すみませんでした」
廊下に出ようとしているその親子に向かって、私はもう一度謝った。
会釈はしてくれたが、目は合わないままだった。
児童館へ来るたび、少しずつ知り合いが増えて、最近はようやくこの街で暮らし始めた気がしていた。
それが、一度に崩れてしまった。
受付に行き、紙とペンを借りる。
自分の名前と電話番号を書く。手が震えて、字が少し曲がった。
そして、絆創膏を貼っている親子のところに行き、「何かありましたら」と言って渡した。
*
外へ出ると、相変わらず暑かった。
いつの間にか、蝉が鳴いている。
周りの人たちが一斉に歩き出した。
信号が青に変わっていた。
気づくと、お店の前に立っていた。
ドアを開ける。
カヨコさんが「あれ?」と言い、店長が顔を上げる。
「すみません」
いつのまにか、蓮はベビーカーの上で寝息を立てていた。
ほっぺのあたりで、涙が渇いて白くなっている。
「……すみません」
どうしていいかわからず、どうしたいかもわからず、私はもう一度呟いた。
ふたりとも、何も言わない。
店長が奥へ行き、大きなランドリーバッグを持って戻ってきた。
そして作業台の上に置いて、袋を開け、私を見て言った。
「たたみをお願いできますか」
「……店長?」
カヨコさんが小さく声を上げる。
店長は答えないまま、作業台に洗濯物を出した。
ぱん。
真っ白いTシャツを広げる。
両袖を内側へ折る。
裾を持ち上げる。
もう一度折る。
手のひらで、そっと空気を抜く。
たたみ終えたTシャツが、作業台の端へ静かに重ねられる。
私は吸い寄せられるように、その前へ立っていた。
店長の隣で、今見たままを、やってみる。
ぱん、と広げる。
両袖を折る。
裾を返す。
一枚。また一枚。
角がぴたりと揃うように、重ねる。
積まれていた洗濯物の山が、少しずつ、でも確実に減っていく。
何枚たたんだのかわからなくなった頃、ふと目を上げた。
大人のシャツ。
小さな子どものTシャツ。
制服のブラウス。
どれも、誰かが着て、人生を送っているもの。
それらが私の前で静かに積み重なっていた。
なんとなく、夜の電車の窓から見える灯りを思い出した。
あのひとつひとつにも、誰かの暮らしがある。
気づくと、頭の中で繰り返していた
”見てなかったんですか”
という声が、少し遠くなっていた。
「ママ」
蓮が起きたのと、私のスマホが震えたのはほとんど同時だった。
カヨコさんがすっと蓮の方に行く。
私は少し迷いながらもスマホを手に取る。知らない番号だった。
「もしもし……?」
「あ、もしもし。昼間に児童館で番号をもらった者です」
「あ……」
声がうまく出なかった。
「あの、本当に……今日はすみませんでした。ひっかいちゃったところ、何か……」
「ちがうんです」
と遮られる。
「どっちも悪かったと思うのに、そちらばかり悪いみたいにしちゃって。
私も驚いてしまって、うまくできなくて。こちらも、ごめんなさい。
傷というほどのものでもないし、大丈夫なんです。それを伝えたくて」
電話を切ったあと、しばらくそのまま立っていた。
ゆっくり振り向くと、店長は作業台でシャツをたたんでいた。
その手を見た瞬間、朝の店先が浮かんだ。
箒を動かし、花の水を替え、ガラスを拭き、ハーブを瓶に詰める。
そして、洗濯物を畳む。
全部、同じ手だった。
私はスマホを鞄へしまい、ゆっくり息を吐いた。
*
すっかり目が覚めた蓮と一緒に、お店の入り口で振り返った。
「今日はありがとうございました」
頭を下げる。
店長が顔を上げて、私たちを見て言った。
「はい、気をつけて」
そして、小さく微笑んだ。
***
久しぶりに、お花屋さんで花を選んだ。
「ありがとうって伝えたくて。 でも、大げさじゃないものがいいんです」
親身になって一緒に選んでくれた店員さんと、悩んだ末に決めた、白い花。
花びらの縁が細かく波打っていて、空気を含んだレースみたいにやわらかい。
それを見て、あの店で最初に手に取った、ハーブティーの小さな三角の包みを思い出したのだ。
路地へ入ると、蓮がベビーカーから降りたがった。
白い小さな花束がかかったベビーカーを押しながら、蓮と手を繋いで一緒に歩きだす。
でも——
看板がない。
もう少し先だっただろうか。
一度戻ってみる。
「れんれん~。なんで見つからないんだろうね」
思わず話しかけた蓮は、大きく手を振りながら、楽しそうに歩いている。
「あれ、蓮、何持ってるの?」
私と繋いでいない方の手に、何か握っているのが見えた。
「てんちょーさん」
つい、声を出して笑ってしまった。
見せてもらうと、それは小さな白い布切れだった。
指先でそっと広げる。
あの日の作業台が浮かんだ。
もう一度だけ辺りを見回したあと、「帰ろっか」と蓮に言うでもなく呟いて、歩き出した。
*
家に帰り、蓮に麦茶を飲ませる。
その間に、ベランダから夏の光をいっぱい吸った洗濯物を取り込む。
そしてゆっくり、ベランダのドアを閉めた。
一番上の洗濯物を手に取る。私のTシャツだ。
ぱん、と広げる。
両袖を内側へ折る。
裾を持ち上げる。
もう一度折る。
角を合わせるときに少しずれたから、もう一度、整える。
そして手のひらで、そっと空気を抜く。
「おはな、きれい」
蓮が、テーブルの上の白いトルコキキョウを見つめていた。
「ほんとだね」
私は笑った。
*
いつもより丁寧に淹れたハーブティーを持って、ベランダに出る。
白い光で溢れていて、なんだか海辺にいるみたいだ。
まだ6時前なのに、日の光がしっかり眩しい。今日も暑くなりそうだ。
朝が来て、昨日と同じように洗濯物があって、朝ごはんを作って、それで蓮はきっと今日も走る。
何も変わっていない。
あのお店で買ったハーブティーは、これで最後だった。
でも、なくなってしまう気はしなかったし、 今日という一日は、昨日とは少し違って見えた。
部屋の中から「ママー!」という声がする。
振り向くと、夫に抱っこされた蓮が、パジャマ姿のまま手を振っているのがガラス越しに見えた。
私も手を振り、それから大きく伸びをした。
カップを手に取って、部屋へ戻る。
今日もまた、新しい一日が始まる。