
自由を守るための秩序とは何か――「ふつう」を問い直す学校づくり
先日、星野俊樹さんのnote「秩序とはなにか―『自由』と『抑圧』という二項対立をこえて」を拝読しました。
また、先日行われた、東京都特別支援学級・通級指導教室設置学校長協会の研修では、野口晃菜さんによる、インクルーシブ教育と次期学習指導要領に関する講演を伺いました。
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「ふつう」とは、誰にとっての普通なのか。
— ピピパパ教員┃公立中校長 (@sato_ed) August 1, 2026
野口晃菜さんの講演を伺い、改めて考えさせられました。
学校の「ふつう」を問い直すこと。
同時に、一人一人にそれぞれの「ふつう」があり、それはみな違うということを認めるところから始めること。… https://t.co/vbVPpBpQid
星野さんの文章からは、「自由」と「秩序」を単純な二項対立で捉えることの危うさを考えさせられました。
野口さんの講演からは、「普通とは誰にとっての普通なのか」という問いと、子どもの側だけでなく、環境や仕組みの側にある障壁にも目を向ける社会モデルの視点を学びました。
一見異なる二つの学びが、私の中では一つの問いとして重なりました。
多様な子どもたちの自由を守るために、学校にはどのような秩序が必要なのか。
学校経営に携わる者として、考えてみたいと思います。
私自身、子どもたちが主体的に学び、自分らしく過ごせる学校をつくりたいと考えています。
しかし、学校には多様な子どもたちがいます。
活発に自分の考えを表現できる子。
友達との関わりの中で力を発揮する子。
静かな環境の中で安心して学べる子。
じっくり考えてから、自分の思いを伝えたい子。
それぞれに、その子なりの「心地よさ」や「参加の仕方」があります。
だからこそ、学校における「自由」とは何かを、問い続ける必要があるのだと思います。
ある人の自由が、別の人の不自由になることがある
学校生活の中では、ある人にとっての自由が、別の人にとっての不自由になることがあります。
例えば、「自由に発言できる環境」。
自分の思いをすぐに言葉にできる子にとっては、自分らしく参加できる場になるかもしれません。
一方で、考える時間が必要な子や、人前で話すことに負担を感じる子にとっては、「いつでも意見を言わなければならない環境」になることもあります。
「みんなで話し合って決める」ことも大切な学びです。
しかし、その場で本当に全員の声が届いているでしょうか。
声の大きい子の意見だけが通っていないでしょうか。
言葉にすることが苦手な子や、考える時間が必要な子の思いが、置き去りになっていないでしょうか。
話したくない権利もあります。
一人で考えたい時間もあります。
その選択によって、別の誰かの安心や権利が損なわれないのであれば、それもまた大切な自己決定です。
主体性とは、いつでも自分の意見を言うことだけではありません。
話すこと。
書くこと。
まずは聞くこと。
いったん距離を置くこと。
自分に合った関わり方を選べることも、主体性を大切にする学校の姿なのではないかと思います。
一人一人に、それぞれの「ふつう」がある
野口さんの講演で、特に印象に残った問いがあります。
「ふつう」とは、誰にとっての普通なのか。
学校の「ふつう」を問い直すこと。
同時に、一人一人にそれぞれの「ふつう」があり、それはみな違うと認めること。
そこから始める必要があるのだと思います。
静かな教室が過ごしやすい人もいれば、多少の音があっても気にならない人もいます。
口頭で説明されることが分かりやすい人もいれば、文字や図で示された方が理解しやすい人もいます。
すぐに話し合うことで考えが深まる人もいれば、一人で考える時間を経て、自分の考えを整理できる人もいます。
休み時間には外で遊びたい人もいれば、室内で静かに過ごしたい人もいます。
どちらかが正しく、どちらかが間違っているわけではありません。
自分にとっての「ふつう」が、相手にとっての「ふつう」とは限らない。
このことを知るところから、インクルーシブな学校づくりは始まるのだと学びました。
私たちは、これまで当たり前だと思ってきた学校の仕組みや活動を、あまり疑うことなく受け入れてきた部分があります。
決められた時間に、同じ教室に集まること。
同じ説明を聞き、同じ方法で学ぶこと。
その場で自分の考えを発表すること。
集団で話し合い、一つの結論を出すこと。
こうした学校の「ふつう」は、多くの子どもたちにとって学びやすい仕組みとして機能してきました。
しかし、その「ふつう」が、ある子どもにとっては、学びにくさや参加しにくさにつながっている可能性もあります。
大切なのは、自分の「ふつう」を全員の「ふつう」にすることではありません。
違いがあることを前提に、どうすれば互いが安心して参加できるのかを考えることです。
全員を一つの形にそろえるのではなく、違いを残しながら、ともに過ごせる接点を探していく。
そこに、インクルーシブな学校づくりの出発点があるのだと思います。
「この子のために」を、本人抜きで決めていないか
一人一人の「ふつう」が違うのであれば、その子にとって何が必要なのかを、大人の側だけで決めることはできません。
だからこそ、子ども本人の意見を丁寧に聴くことが欠かせないのだと思います。
私たちはこれまで、
「この子のために」
と考え、良かれと思って、大人だけで多くのことを決めてきたことがあったように感じます。
「今のあなたには、これをしないと将来困るよ」
そう判断したり、考えたりすることは、私自身にもあったかもしれません。
子どもの将来を思う気持ちそのものが、間違っているわけではありません。
しかし、大人の善意が強くなるほど、本人の思いや願いが後回しになることがあります。
本人のために決めているつもりでも、いつの間にか、大人が考える望ましい姿に子どもを合わせようとしているのかもしれません。
特に管理職は、学校の教育活動や安全に対して、最終的な責任を担っています。
法令を遵守しなければならない。
子どもの安全や権利を守らなければならない。
学校として説明できる判断をしなければならない。
その責任があるからこそ、これまで前提としてきた学校の仕組みや文化を維持しようとする力も、より強く働くのかもしれません。
もちろん、大人が判断しなければならない場面はあります。
本人の希望を、そのまま実現できない場合もあります。
それでも、決める前に本人の声を聴いたか。
本人に分かるように説明したか。
本人が選べる場面をつくったか。
本人の意思を尊重したか。
希望をそのまま実現できないときも、理由を説明し、ほかの方法を一緒に考えたか。
こうした問いを、学校として持ち続ける必要があるのだと思います。
子どもの意見を聴くことは、大人が責任を手放すことではありません。
責任を担うからこそ、一方的に決めるのではなく、本人とともに考える。
その過程も含めて、学校の意思決定であるはずです。
言葉を教える前に、体験を通して考える
「ふつうをアップデート」の教材では、「マジョリティ」「マイノリティ」「バリア」といった言葉を前面に出さない構成になっていると伺いました。
これらは、インクルーシブ教育を考える上で大切な言葉です。
しかし、自分の「ふつう」や、それまでの価値観を揺さぶる内容だからこそ、そこに難しい言葉を重ねるのではなく、まず本質的な問いに向き合えるようにする。
そのような工夫なのだと受け止めました。
難しい用語を先に教えるのではなく、まず体験を通して気付き、考える。
自分にとっての「ふつう」が、隣の人にとっては「ふつう」ではないことを実感する。
その経験を土台にして、社会の仕組みや学校のあり方を考えていく。
難しい概念を単純化するのではなく、本質的な問いに焦点を当てる。
講演の内容だけでなく、その届け方からも、多くを学びました。
学校教育でも、新しい用語や概念を正確に教えることから始めてしまうことがあります。
しかし、まず子ども自身が考えたくなる問いに出会うこと。
自分の経験と結び付けて考えること。
その上で、必要な言葉や概念と出会うこと。
そうした学びの順序も大切にしたいと思います。
個人モデルから、社会モデルの視点へ
今回の講演で示された「個人モデル」と「社会モデル」の違いも、今後の学校経営を考える上で重要な視点だと感じました。
子どもが何かに困っているとき、その原因を、
「本人の努力が足りないから」
「本人にその特性があるから」
と、子どもの側だけに求めてしまうことがあります。
もちろん、子ども自身の特性や、得意なこと、苦手なことを理解することは必要です。
また、集団で生活する上で、共通の約束に合わせる必要がある場面もあります。
社会モデルは、本人の特性を見なくてよいという考え方でも、すべてを環境の問題として説明する考え方でもありません。
それでも、子どもに困難が生じたとき、本人の努力や特性だけで説明を終えず、
「その子が困っている環境や仕組みの側に、どのような障壁があるのか」
と立ち止まって考えることが大切です。
例えば、これまで行ってきた運動会に、参加することが難しい子どもがいたとします。
その子を今ある運動会に参加させるために、練習を増やしたり、支援する人を付けたりすることも、一つの方法です。
しかし、それだけでなく、
そもそも運動会の目的は何か。
そこで、どのような力を育てたいのか。
目の前の多様な子どもたちが、その目的に向かって参加するためには、どのような運動会の設計が必要なのか。
そのように、既存の活動そのものを問い直す視点も必要です。
今ある学校の「ふつう」に子どもを合わせるだけではなく、多様な子どもたちの存在を前提に、制度や文化、実践の側を問い直していく。
困難が生じたとき、社会モデルの視点から環境や仕組みを見直してみる。
その姿勢を、学校として大切にしたいと思います。
教師の努力だけに委ねない
ただし、こうした問いを、個々の教師の意識や努力だけに委ねてはならないと思います。
学校では、多くの子どもが限られた空間の中で生活しています。
一人一人の思いや困り感を丁寧に聴きたいと思っていても、時間や人員には限りがあります。
教師は、自由と安全、個人と集団、ケアと秩序の間を行き来しながら、日々判断しています。
時には、目の前の危険を回避するために、強い言葉で制止しなければならないこともあります。
もちろん、その指導が適切であったかを振り返る必要はあります。
しかし、制度的な限界や構造的な困難を見ないまま、
「教師はもっと学ぶべきだ」
「もっと本人の声を聴くべきだ」
「もっと丁寧に対応すべきだ」
と、個人の力量や自己研鑽だけを求めれば、現場をさらに追い詰めることにもなりかねません。
本人の声を丁寧に聴くためにも、教職員が立ち止まって考え、情報を共有し、対話できる時間や体制が必要です。
子どもを既存の学校の「ふつう」に合わせないことと同じように、教師の努力だけですべてを解決しようとせず、学校の組織や仕組みの側も問い直していく。
それも、社会モデルの視点を学校経営に生かすことなのだと思います。
合理的配慮は、本人との対話から始まる
この考え方は、合理的配慮にもつながります。
合理的配慮という言葉を聞くと、
「一部の子どものために特別な対応をすること」
と捉えられることがあります。
しかし、合理的配慮とは、一人一人の必要に応じて、学びや参加を妨げている障壁を取り除くために、個別の変更や調整を行うことです。
読むことが難しい子どもに、ふりがなや読みやすい教材を用意する。
音に敏感な子どもに、安心して学べる環境を整える。
時間の見通しをもつことが難しい子どもに、予定を視覚化する。
話すことが負担になる子どもに、書くことや、後から伝えることを認める。
これらは、その子を特別扱いするためではありません。
一人一人が持っている力を発揮できるよう、本人と環境との間に生じている障壁を調整しているのです。
ただし、ここでも大人が、
「この子には、この配慮が必要だろう」
と、一方的に決めればよいわけではありません。
本人は何に困っているのか。
どのような方法なら学びやすいのか。
何を希望しているのか。
その配慮を、本人はどのように受け止めているのか。
子どもの年齢や発達の状況に応じて、本人に分かるように説明し、意見を丁寧に聴きながら、一緒に考えていくことが必要です。
合理的配慮は、大人が子どもに「与える」ものではなく、本人との対話を通して調整していくものなのだと思います。
そして、個別の合理的配慮を重ねる中で、複数の子どもに共通する障壁が見えてくることもあります。
そこで得られた気付きを、授業づくりや学校全体の環境改善へとつなげていく。
個別の配慮と、学校の「ふつう」を問い直すことを往復する。
それが、インクルーシブな学校づくりにおける、学校経営の大切な役割なのだと思います。
秩序は、誰のためにあるのか
学校には、一定の秩序が必要です。
しかし、その秩序は、子どもたちを同じ型にはめ、教師の指示に従わせるためのものであってはならないと思います。
教室が、声の大きい人だけの場所にならないための秩序。
身体的な力や発言力の強い人が、場を支配しないための秩序。
刺激に敏感な子どもや、傷つきやすい子どもが、安心して過ごすための秩序。
自分の権利と同じように、他者の権利も大切にするための秩序。
そう考えると、秩序は自由を奪うものではなく、多様な人の自由を守るための土台になります。
ある人が自由に話せることは大切です。
一方で、ほかの人が安心して聞いたり、静かに考えたりする自由も大切です。
自分の思いを表現する自由もあれば、今は話さないことを選ぶ自由もあります。
学校では、異なる自由が出会います。
だからこそ、一人の自由だけを無条件に広げるのではなく、互いの自由や安心が成り立つ接点を探す必要があります。
ただし、その秩序を誰か一人が一方的に決め、従わせればよいわけではありません。
何を守るために必要なのか。
誰が困っているのか。
本人はどう感じているのか。
ほかの方法はないのか。
子どもや教職員がともに問い、必要に応じて見直していくことが大切です。
秩序とは、一度決めたら変えてはならないものではありません。
そこにいる人たちの自由と安心を守るために、問い直し、育て続けていくものなのだと思います。
校長の仕事は、自分が変えることではなく、文化を育てること
学校改革について考えるとき、もう一つ大切にしたいことがあります。
それは、
「誰か一人の強い思いによって変わる学校」
と、
「学校文化として根づく学校」
は違うということです。
リーダーの強い思いや発信によって、学校が短期間で大きく変化することはあります。
私自身、そうした変化を目にしてきました。
しかし、そのリーダーが去った後、取り組みや考え方が十分に受け継がれず、以前の状態へ戻ってしまうこともありました。
その経験から、一時的に学校を変えることと、それを学校文化として根づかせることは、別の営みなのだと感じています。
ただし、「学校文化をつくる」という言葉にも注意が必要です。
校長が正しいと考える価値観を、教職員や子どもたちに浸透させるだけであれば、それもまた、強いリーダーによる改革になってしまいます。
大切なのは、校長の考えを残すことではありません。
なぜ、それを大切にするのかを、教職員や子どもたちと共有すること。
一人一人の声に耳を傾け、対話しながら、自分たちなりの形をつくること。
うまくいかなければ、再び問い直すこと。
子ども本人の意見も含めて、学校の仕組みや文化を更新し続けること。
その人がいなくなった後も、大切にしてきた価値が受け継がれ、さらに問い直され、発展していくためには、個人の考えではなく、みんなで考え続ける文化になる必要があります。
校長やリーダーの役割は、
「自分が学校を変えること」
ではありません。
学校にいる人たちが、自分たちで問いをもち、対話し、よりよい方向へ変わり続けられる環境を整えること。
自分がいなくなった後も、子どもや教職員の中に息づく考え方や行動様式を育てること。
それが、本当の意味での学校づくりなのだと思います。
校長がいるから続く取り組みではなく、そこにいる人たちが、その意味を理解し、自分たちのものとして引き受けている文化。
私がいなくなった後も、その学校に息づき続ける文化。
私は、そんな学校文化をつくりたいと思っています。
自由と秩序の間にあるもの
学校は、多様な人が集まる場所です。
だからこそ、
自由か管理か。
個人か集団か。
公平か配慮か。
どちらか一方を選ぶものではありません。
大切なのは、その間にある答えを探し続けることです。
ある人の自由が、別の人の不自由にならないために。
自分の「ふつう」を相手に押しつけないために。
本人のためという善意によって、本人の声を置き去りにしないために。
互いの違いを認めながら、ともに過ごすための接点を探すこと。
自分の自由を大切にしながら、他者の自由にも想像力を向けること。
それは、自分の希望を我慢して、多数派に合わせるということではありません。
互いに何を大切にしているのかを知り、どのようにすればともに過ごせるのかを、対話しながら探していくことです。
そして、その対話には、子ども本人も参加している必要があります。
私は、それこそが学校における民主主義の学びであり、インクルーシブな学校文化づくりなのだと思います。
秩序とは、子どもを一つの型に従わせるためのものではなく、多様な子どもたちの自由と安心を支えるための土台であるはずです。
そして、その土台を、誰か一人の正解によってつくるのではなく、子どもや教職員とともに問い直し、育て続ける。
学習指導要領が大きく変わろうとしている今、まずは足元の学校づくりから始めたいと思います。
校長が学校を変えるのではなく、
学校が、自らよりよい方向へ変わり続ける文化を育てる。
私がいなくなった後も、その価値観が学校の中に息づき、そこにいる人たちによって問い直され、更新され続けていく。
そんな学校をつくっていきたいと思います。