
海外生活: 知らない誰かの苦しみに、心を寄せるのは難しい
私はシンガポールに住んでいる。
ある朝、登園準備をしていた娘が、「これ、お友だちにあげるの」と言って、宝箱から手作りのブレスレットを二つ取り出した。
誰に渡すのか尋ねると、インド人の女の子たちの名前をあげた。
「昨日、幼稚園で泣いた時にティッシュをくれたから」
いつも楽しく通っている幼稚園だ。泣いたと聞いても、特に構えることはない。走って転んじゃったかな。
「へえ、お友だち優しいね」
私は何があったか気に留めず、5歳児を送り出した。
◇
それから数日後。
夕食の席でふと、娘が呟いた。
「このあいだ、幼稚園で津波の映像を見たの」
今学期、年長クラスでは自然現象を学んでいる。春休みの宿題は、自分が気になる自然現象を調べ、みんなの前で発表することだった。
娘は、地震を選んだ。
そうか、津波もやったのか。
「先生が、これは日本の津波だって言って映像を見せたの」
東日本大震災だろう。さすが海外。
日本なら、園児に津波の映像はセンシティブ過ぎて見せられない。
「わたし、それを見て泣いたんだ」
なるほど、この間「幼稚園で泣いた」というのはこのことかとピンときた。
「かわいそうに、怖く感じたんだね」
私が背中をさすると、娘は首を振った。
「ちがう。クラスの子たちが、その映像を見て笑ったから。車や家が流されてる!って、笑ったから。」
◇
知らない誰かの苦しみに、心を寄せるのは難しい。
見たこともない大きなうねりが、知らない町の見慣れない家屋や車を押し流す。世界のほとんどの人にしてみれば、ショート動画で消費される衝撃クリップと変わらない。
濁流の中に生きたかった命があって、恐ろしい最期を迎えた。そんなこと、いちいち想像されないのだ。
実は私も、大学生の頃に同じようなことをしている。
テロリズムと外交をテーマにした研究発表で、資料の表紙に911のタワーが燃える写真を添えた。担当教授からのレビュー後、テキサスで長らく教鞭を取っていた彼は、小声でこう指摘した。
「10年以上経つけれど、アメリカではいまだにこの光景に取り乱す人がいる。本当にこれが必要か、検討した方がいい」
発表の場には、アメリカから政治学者が数名来るはずだった。私にとってその写真は、研究にインパクトを添える挿絵でしかない。
私は恥入り、表紙から画像を消した。
◇
津波の心配のない場所では、TSUNAMIはビッグウェーブと同義である。
プールで大きな波を巻き起こし、子どもを「TSUNAMI」でキャーキャー言わせる家族連れを、これまで何度か見たことがある。
そのうちの1回は、友人家族と遊んでいる時だった。
「気をつけろー、TSUNAMIが来るよー!」
叫んだ直後、友人は「私のこと」に気づいてハッとやめた。
視線が泳いだその一瞬に、私は彼女の心を感じた。
だから、嫌な思いはしなかった。
◇
全ての不幸に心を寄せていては、人間は生きていけない。
この世の全てに配慮して「不謹慎」と糾弾しまくる社会の息苦しさを、私はよく知っている。
もし自分の住む場所に、津波、地震、台風、山火事、そうした脅威がないのなら。それらを全部「自分ごと」にすることで、脳は世界を恐ろしい場所だと誤認する。
私だってそうだ。
飢えやテロに怯えたり、ミサイルが降ってくるかもと考え始めたら、精神薬が手放せない。
「自分ごと」の範囲を狭めるのは、健康に生きる上で必要だ。
・・・それにも関わらず、世界のことを気にかけるのはいいものだ。
だから私たちは学校で学び、外へ出て、新しい人たちと話すのだろう。
娘のクラスの子どもたちは、津波がほんの少し、「自分ごと」になったかもしれない。
笑ったことで、友だちが泣いた。
ばつの悪い思いをした子もいただろう。
なぜ娘が泣いたのか、まだ分からない子がいてもいい。
人間のもつエンパシーがその程度でも、地球は今日も回っているから。
ではまた🖐️