
第1話 返事を待つ夜
【第1話 返事を待つ夜】
【登場人物紹介】
瀬川 栞(せがわ・しおり)
32歳。川沿いの小さな出版社で働いている。
笑顔だけは昔からよく褒められた。
人を大切にしたいのに、その距離をいつも少し間違えてしまう。
白河 灯里(しらかわ・あかり)
栞と同じ編集部で働く先輩。
やさしいけれど、曖昧なことを曖昧なままにしない人。
栞が何度も頼ってしまう相手。
成瀬 律(なるせ・りつ)
橋の向こうにある古書店「水曜日の本棚」の店主。
多くを話さず、栞の話を静かに聞いてくれる。
その沈黙は、栞にとって救いでもあり、不安でもある。
三崎 蒼(みさき・あお)
3年前、栞の前から何も言わずにいなくなった人。
ある夜、突然メッセージを送ってくる。
私は、返事を待つのが苦手だった。
既読、という2文字は小さい。
小さいくせに、夜になるとやけに大きく見える。
スマートフォンの画面には、私が最後に送ったメッセージだけが残っていた。
「返事、急がなくて大丈夫です」
送った瞬間、嘘だと思った。
急がなくていいなんて、少しも思っていなかった。
今すぐ返事がほしかった。
「怒っていないよ」
「大丈夫だよ」
「嫌いになってないよ」
そんな短い言葉を待っていた。
通知は鳴らない。
最初の5分は、忙しいだけだと思う。
10分経つと、何か怒らせたのかもしれないと思う。
30分経つと、もう嫌われたのだと決めつける。
1時間後には、送っていないメッセージを書きはじめる。
「ごめんなさい」
「気にしないでください」
「もう送りません」
送らないと決めたそばから、次に送る文章を考えている。
昔から、笑顔だけは、よく褒められた。
愛嬌があるね。
話しやすいね。
いつも楽しそうだね。
そう言われるたび、少し安心した。
よかった。
私はここにいてもいいらしい。
けれど、人のそばにいる方法はよくわからなかった。
近づきたいのに、近づきすぎる。
大切にしたいのに、苦しくさせる。
寂しいと言えなくて、用事のない言葉を並べる。
大切にしたい気持ちはあった。
ただ、その気持ちの置き場所を、いつも間違えてしまう。
私の大切は、少し重かった。
ある春から、私はふたりの人に支えられるようになった。
そのころの私は、毎日ちゃんと出勤して、ちゃんと笑って、ちゃんと返事をしていた。
けれど、ひとりになると急に、自分の輪郭がほどけてしまうような感覚があった。
仕事で大きな失敗をしたわけではない。
誰かにひどいことを言われたわけでもない。
ただ、朝起きて、服を選んで、会社へ向かって、誰かと普通に話す。
その普通のことが、少しずつ苦しくなっていた。
白河灯里に出会ったのは、そんな時期だった。
灯里さんは、私が配属された編集部の先輩だった。
最初に話したのは、コピー機の前だったと思う。
紙詰まりを直せずに固まっていた私に、灯里さんは笑わずに近づいてきて、
「ここ、少し力を入れると開きます」
と言った。
その声が、妙に静かだった。
やさしい人だと思った。
でも、やさしさを売り物にしている人ではなかった。
困っている人を見つけるのが早くて、必要な分だけ手を貸して、それ以上は踏み込まない。
その距離の取り方が、私には少し不思議だった。
私はそのふたりに、何度も助けられた。
そして、何度も困らせた。
最近、「生きづらさ」という言葉をよく見かける。
その言葉に救われた日もあった。
私の中でずっと絡まっていたものに、名前がついたような気がしたからだ。
でも、名前がついたからといって何かが帳消しになるわけではない。
誰かを疲れさせたこと。
困らせたこと。
大切にしたいと言いながら、相手の時間を奪ってしまったこと。
そういうものは、ちゃんと残る。
これは、そんな私の話だ。
何度も間違えて、
何度も同じ場所でつまずいて、
それでも少しずつ、人との距離を覚えていこうとした話。
そしてその夜、私はまた送らなかった文章を残していた。
「私、また間違えましたか」
送信ボタンの上で、親指が止まる。
押さなければいい。
今夜だけは、押さなければいい。
そう思った瞬間、通知が鳴った。
画面に表示された名前を見て、息が止まった。
3年前、何も言わず私の前からいなくなった人だった。
その人の名前を、私はまだ消せずにいた。
※この作品はフィクションです。実在の人物・場所・出来事とは関係ありません。