
空白の一日|後編 【短編小説】
男は、鏡を見つめる。
鏡に映っていないのか。
それとも、自分が鏡の中にいるのか。
どちらか、わからなかった。
ただ、男は思う。
鏡の中がいい。
誰もいない世界。
自分だけが透明で、鏡に映らない世界。
それとも、自分しかいない鏡の中の世界。
どちらがいいか。
考えるまでもない。
鏡の中がいい。
誰にも見られない。
自分しかいない。
そんな世界があるなら、それがいい。
男は鏡を触る。
冷たい。
どうやら、鏡の中に入ることはできない。
しかし、自分の姿も影も見えない。
男は鏡の表面をなぞり、顔を近づける。
その瞬間、男は驚いてのけぞった。
誰かがいる。
鏡の中に。
声もする。
「あれ? 今日、お父さんは?」
どうやら、娘の声だった。
「何言ってるの? 昨日から出張でしょ」
妻の声もする。
「いつ帰ってくるの?」
「帰って来ないわよ。ずっと」
「へぇぇ。そうなんだ。帰らない出張なんてあるの」
「あるのよ。」
どういうことだ?
鏡の中の会話は続く。
「帰ってこない出張もあるのよ」
「ふーん」
「いいから早く用意しなさい。今日、部活でしょ」
「はーい」
何を言っているんだ。
男は、鏡を見つめ続ける。
どうやら、向こう側の世界には自分はいない。ただ、誰も不思議には、思っていない。
いつもの朝だった。
いつもの生活だった。
男は、そこにいない。
現実もそうだったのかもな。
もう人間だったころの記憶がなくなりかけていた。けれど、世界は普通に動いていた。
胸がざわつく。
そして、男は思う。
まあ、気にしないでおこう。
気にしても仕方がない。
男は鏡から離れた。
部屋に戻った。
こちら側に、人の気配はない。
誰もいない。
娘も息子もいない。
誰の声も聞こえない。
たぶん、こちらは鏡の中だろう。
男は廊下を歩く。
娘の部屋をのぞく。
やはり誰もいない。
机も、服も、カバンも、そこにある。
でも、誰もいない。
男は安心した。
これで、気兼ねなく書ける。
誰にも読まれない。
男は机に向かった。
白い紙があった。
ただ白い紙が机のうえにあるだけだった。
男は椅子に座り、ペンを持った。
誰もいない世界。何を書いても、誰にも読まれない。
読者も批評家も友人も家族も
誰もいない。
もう届けなくていい。
誰の役にも立たなくていい。
好きに書けばいい。
誰の目も気にせずに。
男は、白紙の上にペンを置いた。
今度は、止まらない。
ペンが走った。
白の上を。
部屋に、ひとりの人物がいた。
その人物は、男を見ていない。
男に話しかけもしなかった。
ただ、そこにいた。
ああ。なるほどね。
男は、人の気配を感じた。
だが、そちらは見なかった。
「久しぶりだね」
そう話しかけた。
「いや、はじめましてだよ」
男は書き続けた。鏡の向こう側では何が起きているのか?こちらには、誰もいない。
いや、ふたりいる。
男ともう一人の男。
それでよかった。
空白の一日。
何も書けなかった。しかし、誰もいない世界では、男はペンを止めなかった。
物語が走り出す。
人間だったころの記憶はあまりない。
今日、眠って起きたとき
どこで起きるんだろう。
まあ、そりゃそうだろ。
男は、そう思った。
出張先にはなんて言えばいいんだ。
鏡の中に閉じ込められています。
信じてもらえるかな。
まあ、覚えてないか。
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