運転手さん、その「よー」に何か意味があるんですか?
バス停に並ぶと、前に買い物カートを手にしたご高齢の女性がいた。立っているだけでも、少ししんどそうに見えたけど、私と目が合うと、ニッコリ微笑んでくださった。
「今日はお日様が出て何よりでしたね」と声をかけると、「そうですね。おかげさまで、たくさんお買い物ができました」とうれしそうにおっしゃった。
その笑顔につられて、こちらまで気持ちが明るくなった。
そこへバスが来た。
ところが、ご婦人は後ろにいる私に、「先にどうぞ」とおっしゃった。
あれ、このバスには乗らないのかな?と思って先に乗ると、ご婦人も私の後ろから乗ってこられた。
階段を、一段ずつ、ゆっくりと。
なるほど、ご自分に時間がかかるから、先に譲ってくださったのか。
急いでもいないのに先に乗った自分が、ちょっとせっかちに思えた。
ご婦人は、首から下げたパスを機械にかざした。
……鳴らない。
もう一度。
……やはり鳴らない。
あの「ピッ」という音。
普段は何とも思わないけど、鳴ってほしいときに限って、ずいぶんもったいぶるから気になる。
乗客の視線が一挙に集まった。
すると運転手さんが言った。
「もう一度、ちゃんと当ててくださいよー」
ん?
今の「よー」。
私の耳には、ずいぶん違うものが入って聞こえた。
〈こんな通勤時間帯に。まったく〉
もちろん、運転手さんがそう言ったわけではないけれど、勝手にそう感じてしまう「よー」だった。
「はい、どんどん奥、詰めてくださいよー」
また出た。「よー」。
〈早く移動してくれよ。時刻が遅れるだろ〉
いや、こちらにも、思い込みがあるかもしれない。
①もしかしたら、この運転手さんは、今ものすごくトイレを我慢しているのかもしれない。
それなら、この一分は切実だ。
②もしかしたら、昨夜、奥さんに、「ねえ、私の話、ちゃんと聞いてる?」と言われたのかもしれない。
「聞いてるよー」と答えたら、「じゃあ、今なんて言った?」と抜き打ち試験をされて、イライラしてるとか?
③あるいは、娘さんに「お父さんのパンツと一緒に私のTシャツ、洗わないで」と奥さんと話しているのが聞こえてショックだったとか?
②と③は、我が家の話だけど。
さて、無事に「ピッ」が完了して、ご婦人は申しわけなさそうに奥へ進み始めた。
車内では、乗客たちが少しずつ体をずらしている。
足を引き、荷物を寄せ、ご婦人が優先席へ行けるように道を作っていた。誰かが号令をかけたわけでもないけれど、ご婦人の歩く速さに合わせて、細い通路が少しずつ開いていく。
運転手さん。
見えてますかー。
この「かー」には、私の気持ちが入っている。
〈今、みんなで道を作ってますから。もう少々お待ちください〉
口には出さない。
出さないけれど、心の中では、かなりはっきり発音した。
「ありがとうございます」
ご婦人はそう言って、無事に腰を下ろした。
よかった。
私まで、ほっとした。
その直後、無表情に運転手さんがアクセルを踏んだ。
ぐらっ。
いつもより大きく揺れた車内で、私は思わず手すりを両手でつかんだ。
「おっとー」
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