
落語好き94歳の一席 老人の事始め
えー、私、こう見えても、もう94歳。若く見えるって? それはありがたい。お世辞でも嬉しいですよ。
一人暮らしをしてるっていうと、気楽気ままでいいんですがね。何を不自由するかってぇと、やっぱり、食いもんだね。
来る日も来る日も弁当だ。それも老人御用達の、やわらか弁当。歯がなくても歯茎があれば食べられるってぇやつ。何を口に入れてるんだかわかないな。やっぱり、噛み応えのない食事ってぇのは味気ないもんです。
それにね、一人で食べるってぇのはつまんない。前を見ても誰もいない。目の前は、誰も座っていない椅子だけだ。だから、視線は自然とね、プラスチックの弁当箱の中の、おかずの顔色を見ちゃうんですよ。
全部やわらかいからね、何が何だかわかんない。肉なのか、魚なのか、野菜なのか。原型をとどめないからね。元はどんな顔してたのか、なんてね、想像を膨らましながら箸をつける。それが唯一の、食事の楽しみってぇもんですよ。
そんなんだからね、フランスに暮らしてる娘が時々帰ってくるのが待ち遠しいんですよ。久しぶりに娘を相手に、焼酎片手に飲みながらね、たまんないねぇ。思い出したら、涙が出てくりゃあ。
いけねぇ、や。この歳になると、涙もろくなっちゃって。
そうそう、その娘がいま帰省していてね、昨夜、私んちへ来てくれたんですよ。偶然にも、7月7日、七夕ですよ。
娘との再会を待ちわびるってぇ心は、まさしく、彦星が織姫と再会するみたいなもんだね。
いけねぇ。年甲斐もなく、また涙が出やがった。
娘に何をつくってもらったかって? それはね、冷やし中華なんですよ。私の好物、リクエスト。いろいろ具材を乗せて、つくってくれる。コンビニで買ってくるのとは、わけが違う。うまかったなぁ。また涙が出ますよ。
それでね、その娘が作ってくれたうまい冷やし中華を食べてたら、娘が言い出したんですよ。
「お父さま、noteというのがあるのよ」と。
「なんじゃそれ」と聞きましたらね。
「読んだ人が感想を書いてくれたり、気に入ったら『スキ』というアイコンを押してくれたりもするのよ」
「誰でも文章を発表できるのかい?」
「そう」
「それなら、私もまだ新人になれるかな」
これまで私ゃね、94年の人生の中で、いろいろやってきましたよ。商社勤めでは長く海外で働きましたが、後年は書くことが好きなので8冊も本を出しました。書くことによって、自分の考えを整理できる。文字を介せば多くの人と出会うことができるんですよ。
歳をとるってぇのはね、寂しいもんですよ。周り見渡しゃ、同級生とか同期ってぇ友達は、次々に消えてゆく。一人また一人と。仕事も終わり、人と語り合う機会も減ってくる。話す相手もいなくなる。手持ち無沙汰になってた私にね、娘が「また書いてみたら」と背中を押してくれた。嬉しかったね。
それで、また書き始めたんですよ。「三村比沙夫」という名前を使ってね。九十歳を過ぎてから、また新人になった思いです。
振り返りゃ、人生とは面白いもんですな。私は三十代半ばから四十年ほどフルートをやりました。指の故障で続けられなくなると、今度は声楽です。イタリアオペラの歌を歌いました。九十一歳では、児童英語インストラクターの資格も取りました。
人生は、まだまだ終わらない。新しいことを始めるたびに、自分でも知らなかった自分に出会います。娘に教えてもらって始めたnoteも、その一つになるかもしれないねぇ。そんな思いです。
これからはね、小説だけじゃなく、人生で出会った人々のこと、海外で学んだこと、音楽や落語のこと、そして歳を重ねて初めて気づいたことなんかを書いてみたいと思ってます。
私の文章を読んでね、「こんな考え方もあるのか」と思っていただけたら、それだけで嬉しい。
九十四歳。もう遅い? いやぁー、九十四歳だからこそ書けることがありますな。そう信じて、今日も机に向かってます。
***
英語にも、いろいろな人がおります。
生まれた時から英語を話している人。ネイティブというそうです。
二つの言葉を自由に操る人。これはバイリンガル。
私はどちらでもない。
ただ、付き合いだけは長い。
八十年を超えた。
英語と初めて出会ったのは、終戦の年の四月である。
私は旧制中学一年生だった。
戦争も末期になると、学校の授業どころではない。
あれもなくなる。
これもなくなる。
ところが、英語は残った。
なぜ残ったのか。
私は知らない。
とにかく残った。
しかも、担当の教師が厳しかった。
当時は、ずるいことをした生徒に鉄拳が飛んだ。
鉄の拳、と書いて鉄拳である。
今なら問題になるだろう。
当時は、問題にもならなかった。
ある日の授業で、私は簡単な英語の質問に正しく答えられなかった。
教師が言った。
「級長ともあろう者が、何たるざまだ」
大勢の生徒の前であった。
私の自尊心は、大いに傷ついた。
英語なんか、やるものか。
そういう道もあったと思う。
ところが私は、英語が好きだった。
ならば仕方がない。
徹底的に勉強して、見返してやろう。
十三歳の少年は、そう考えた。
我ながら、昔から負けず嫌いだったらしい。
大学では文科系に進む道もあった。周囲の助言もあって法学系に進んだが、英語の勉強を忘れることはなかった。
今では、大手商社などの中には、新入社員を一、二年間、海外へ語学留学させる制度もあると聞く。
私たちの時代には、そんなものはなかった。
自分で勉強するしかない。
その英語が、大きく役に立ったのは三十代半ばの頃である。
空前絶後といわれた香港地下鉄のプロジェクトに関わった。
日本の大手五十六社が参加する大仕事である。
私は大手六商社のうち、幹事会社のチームリーダーを務めた。
こう書くと、たいそう偉そうに聞こえる。
実際、少しは偉かったのかもしれない。
会議を組織し、司会もした。香港政庁の高官や、英国の世界的なコンサルタントとの会議にも何度も立ち会った。
ある日、その英国人コンサルタントの一人と、アフタヌーンティーを共にした。
彼が私に言った。
「あなたの英語は、英語じゃないね。米語だ」
やんわりとした言い方だった。
しかし、これがまた心に刺さった。
そうか。
私の英語は、英語ではないのか。
そこで私は、英国人の語学教師について数年間勉強もした。
十三歳では、教師に叱られた。
三十代では、英国人に「米語だ」と言われた。
振り返ってみると、私の英語人生は、どうも自尊心を傷つけられるたびに前へ進んできたらしい。
***
世の中のことなど、あれこれと。
しょせん、私のひとりごとにすぎませんが。
世の中、資格というものがございます。
持っている人は、案外気にしない。
持っていない人間は、妙に気になる。
私がそうだった。
『百四十回のレッスン』に書いた加寿子は、中学二年で英検二級、高校二年で準一級を取った。
教え子が準一級を取った。
もちろん、嬉しかった。
でもね。
「英検準一級」という資格が、何の資格も持たない私の前に、一つの壁のように立ちはだかったのである。
そもそも、英検準一級とはどんなものなのか。
ネイティブ級の能力が必要とされる一級とは格段の差があるにしても、相当な試験には違いない。どんな英検にしても、その試験に頻出の語彙や決まり文句や表現方法があるのではないか。
加寿子は必死に勉強して、これを突破したのだろう。
だが、私は彼女の英語力をよく知っている。
そこで考えた。
英検には、英検のための語彙や特殊な表現領域があるのではないか。
そこを徹底的に勉強すれば、英語世界全般について広い知識がなくても、試験には通るのではないか。
たとえて言えば、一曲しか弾けない人間が、その一曲を見事に弾いてピアニストになるようなものである。
一方、私はどうか。
さして上手くはない。
しかし、一応どんな曲でも弾けるピアニスト。
そんなところではなかろうか。
もちろん、これは私なりの勝手な理屈である。
英検を受ければいいではないか。
そう言う人もいるだろう。
嫌である。
今さら英検のための受験勉強をする気はなかった。
そんなとき、たまたま目にしたのが「児童英語インストラクター」という資格だった。
各種の能力開発を目的とする財団法人の認定資格で、取得すれば履歴にも記すことができるという。
これならいい。
なぜ、そんな短絡的な気持ちになったのか、
自分でもよく分からない。
とにかく、私は勉強を始めた。
九十歳のときである。
教材は十巻あった。
しかも、かなりぶ厚い。
すべて独学である。
十巻を読み、覚える。
その内容に基づく予備試験が三回ある。
三回すべてを通らなければ、本試験を受けることができない。
落ちれば、しばらくして、また受けるほかない。かなりの時間がかかる。
私は十巻を読んだ。
覚えた。
頭に叩き込んだ。
内容の九割以上は、長年英語と付き合ってきた私には馴染みのあるものだった。
しかし、子どもに英語を教えるための決まり文句や、初心者への接し方など、知らないことも山ほどあった。
そういうものは、覚えるしかない。
第一回の予備試験。
通った。
第二回目も、第三回目も、すんなり通った。
すべて一度である。
そして本試験。
これも一度で通った。
勉強を始めて、六、七か月。
九十一歳で、私は「児童英語インストラクター」になった。
後日、額に入った認定証が送られてきた。
それを見たとき、どんなに嬉しかったか、――と言いたいところだが、実はそれほどでもなかった。
「こんなものが手に入ったか」
その程度だった。
合格する自信はあった。
英語と八十年近く付き合ってきたのだから。
児童英語インストラクターの試験に落ちるはずはない。
我ながら、ずいぶん自信家である。
資格は取った。
あとは、教えるだけである。
私は、そう思っていた。
***
さて。
これからどうしよう。
そう思っていたところへ、台湾に赴任するという家族から話があった。
小学生の女の子と男の子、それに母親。三人とも、英語はほとんど分からないという。
「教えてもらえますか」
よろしい。
こういう話を待っていた。
三か月間、じっくり教えた。もちろん、ボランティアである。
資格を取るために勉強したことが、初めて役に立った。
教材には、英語を初めて学ぶ子どもに教えるための歌や、決まり文句や、さまざまな方法が載っていた。
なるほど。こうやって教えるのか。
八十年も英語と付き合ってきたが、知らないことがまだあった。
三か月のレッスンが終わり、一家は台湾へ行った。
それから一年ほど経った頃である。
年次休暇で帰国していた母子が、ひょっこり訪ねてきた。
帰国中の予定は、さぞ詰まっていたことだろう。その合間を縫って、わざわざ私のところへ来てくれた。
「先生に三か月集中して教えていただいたことが、どれほど役に立っているか。台湾に行ってみて、しみじみ感じています」
嬉しかった。
そして、少し驚いた。
百四十回レッスンを終えた最終日に、「お世話になりました」の一言がない人もいる。三か月教えただけなのに、一年後、わざわざ礼を言いに来る人もいる。
まだ残る、日本人の古風なしきたりを見た気がした。
さて。
次は誰を教えようか。
ところが、誰も来ない。
一人も来ない。
考えてみれば、私は生徒の探し方を知らなかった。
昔なら、同じマンションに住む少女に出会った。台湾へ行く家族の方からも、話がやってきた。
私は、来た人に英語を教えてきたのである。
自分から生徒を探したことがない。
九十四歳になった。
体力は、ずいぶん落ちた。年には逆らえない。外へ出かけて、どこかの教室で教えるのは、もう無理だろう。
しかし今日、LINEというものがある。オンラインというものもある。
家にいながら、子どもに英語を教えることだってできる。
便利な世の中になったものである。
問題は、どうやってその子どもと出会えばいいのか。
それが分からない。
教えたいよ。
教えたいよ。
でもね。
教える相手がいねぇんだよ。
一昨日、新しい英語を覚えた。
I'm at dark. 行き詰っていて、よくわからない。
そんな意味らしい。
しょせん、私のひとりごとにすぎませんが。
いまの気持ち。
聞こえるかい? 聞こえるかい?
I'm at dark.
(了)