
揺れながら映る人間模様
― 表と裏の狭間で見えたもの ―**
人は皆、表と裏を抱えて生きている。
優しい人にも残酷さがある。
強い人にも弱さがある。
私は六十年以上生きてきて、
数え切れないほどの人間模様を見てきた。
母のこと。
妻のこと。
娘のこと。
そして仕事で出会った人たちのこと。
振り返れば、
私自身もまた、
表と裏の狭間で揺れ続けてきた一人だった。
これは、
そんな私が見てきた人間模様の記録である。
母という原点
私は、三人兄弟の末っ子として生まれた。 年子で生まれた兄たちに続き、
母のお腹には、すぐに私が出来た。
周囲の人たちは反対したという。
「そんなに続けて産んだら、身体がもたない」
だが、母だけは言ったそうである。
「どんな事があっても、この子を産んでみせる」と。
そして私は、この世に生まれた。
しかし結果として、母は身体を壊した。
二年もの間、病院で過ごす事になったのである。
落ち込む日々の中で、ある時、母は思ったという。
こんな気持ちでいたら、いつまで経っても良くならないと。
それから母は、身体を回復させるために、
出来る事は何でもするようになった。
そして――ようやく退院した時、父の姿は、もうそこには無かった。
母はその後、手術後の療養も兼ねて空気の良い地方で、
三人の子供たちと暮らし始めた。
私は、そんな母の背中を見ながら育った。 だからなのかもしれない。
人の弱さや、孤独や、必死に生きる姿に、私はどこか敏感だった。
私は、母を愛していたのだと思う。
だが今振り返ると、それは単純な愛情だけではなかった気もしている。
母が「私だけは、どんな事があっても産んでみせる!」と言って産んだ子供。 その言葉を、私は何度も聞かされながら育った。
子供の頃は、それが母の愛情なのだと思っていた。
だが大人になるにつれ、少しずつ別の感情も芽生えていった。
母を支えなければならない。 見捨ててはいけない。
自分だけ幸せになってはいけない。
そんな感覚が、いつしか心の奥に根を張っていた。
母にとって「産んでみせる」は必死に生きた証だったのだろう。
だが私にとっては、いつしか呪縛のようになっていたのである。
華やかな場所の裏側
母が社交ダンスを続けていた理由も、本当にダンスが好きだったのか、
子供だった私には解らなかった。
もしかすると、人脈を広げるためだったのかもしれない。
女手一つで生きていく時代の中で、人との繋がりは、
生きるための支えだったのだと思う。
だが、華やかに見えるダンスの世界にも、やはり表と裏があった。
ある日、サークルの中心にいる女性が母へ向かって言った。
「あなたのダンスは嫌らしいのよ!」
子供だった私は、その言葉の意味までは理解出来なかった。
だが、母が傷ついている事だけは解った。
それから母は、「今に見ていろ!」と言うように
ダンスへ打ち込むようになった。
もともと飛び抜けて音楽のセンスがあった訳ではない。
それでも、負けないように。 見返すように。 歯を食いしばるように。
私は、そんな母の姿を近くで見ていた。
だから思ったのである。 もし自分も一緒に踊れたなら。
少しは、母を守ってあげられるのではないかと。
私も特別ダンスのセンスがあった訳ではない。
それでも母と一緒にパーティーへ行くようになってから、
少しずつ空気が変わっていった。
若い息子が母親と踊っている。
それだけで、周囲には珍しく、羨ましく映ったのだろう。
パーティーでも、サークルでも、
私たちは次第に目立つ存在になっていった。
最初は、母を見下すような空気もあった。
だが二年も経つ頃には、母が場を仕切るようになっていた。
皆が母に挨拶へ来る。 笑顔を向け、おべっかを言い、機嫌を窺う。
そして母は、どこか誇らしそうに笑っていた。
気分が良い時には、 「この方と踊って差し上げなさい」 そう言って、
私を“ご褒美”を与えるように扱う事もあった。
今思えば、そこにもまた、人間の表と裏があったのだと思う。
立場が変われば、人の態度も変わる。 白と黒は、簡単に反転する。
だが当時の私は、そんな事よりも、
母が嬉しそうに笑っている事の方が大切だった。
だから私は、それを“良かれ”として受け入れていたのである。
誤った献身
私は、そんな母を見ながら育った。
正直に言えば、女性としては最低だと思う瞬間もあった。
周囲を見下すような態度。
人によって変わる顔。
気分で揺れる言葉。
子供だった私は、そんな母に嫌悪感を抱くこともあった。
だが、それでも見捨てることはできなかった。
母親だから――。
ただ、その一言だけで受け入れていたのである。
私は母を守ろうとした。
一緒に踊り、周囲の空気から守ろうとした。
母が笑っていてくれるなら、それで良いと思っていた。
だが今になって思う。
あれは本当に母を救うことだったのだろうか。
もしかすると私は、
母の弱さや歪みまで支えてしまっていたのかもしれない。
人は優しさだけでは救えない。
時に、善意は相手を変えるどころか、
その在り方を固定してしまうことがある。
もし母が戻れないほど性格を変えてしまったのだとしたら。
そこには、私の献身も少なからず影響していたのかもしれない。
二人の兄は結婚し、それぞれの家庭を築いていった。
だが私は違った。
母を残して自分だけ幸せになることに、どこか罪悪感があった。
母を支えなければならない。
見捨ててはいけない。
自分だけ幸せになってはいけない。
そんな思いが、いつしか私の中で当たり前になっていたのである。
だから私は、自分の人生を考える時も、
いつも母の存在を念頭に置いていた。
そんな私に、一人の女性が想いを寄せてくれた。
私は彼女に言った。
「私と一緒になったら、母の面倒も見なければならない。
それでも大丈夫か」
今思えば、試していたのかもしれない。
あるいは、諦めてほしかったのかもしれない。
だが彼女は、それでも一緒になりたいと言った。
母とも自然に接し、笑顔で向き合ってくれた。
その姿を見て、私は結婚を決めた。
しかし今振り返ると、私は“愛すること”よりも、
“守ること”を優先していたのだと思う。
誰かを愛する人生ではなく、
誰かを支える人生を選び続けていた。
それが正しいと思っていた。
だが本当に必要だったのは、
誰かを守ることではなく、
誰かと向き合うことだったのかもしれない。
壊れていく空気
二人の間に娘が生まれてから、家庭の空気は少しずつ変わり始めた。
結婚する前、妻は母とも自然に接してくれていた。
だから私は、この人なら大丈夫だと思っていたのである。
だが、娘が生まれてから様子が変わっていった。
最初は小さな違和感だった。
母に対する言葉が少しずつ減っていく。
一緒の空間にいても会話をしなくなる。 やがて、口も利かなくなった。
理由は今でもよく解らない。
母に対する不満があったのか。
子供を守ろうとする母親としての本能だったのか。
それとも、家庭の中で自分の存在を優先したかったのか。
当時の私には解らなかった。
ただ、家の中の空気だけは確実に変わっていった。
娘を中心に家庭が回るようになるにつれ、
妻の要求は少しずつ強くなっていった。
私は、それを受け入れていた。
娘には父親も必要だ。 母親も必要だ。
だから、多少の事なら我慢しよう。 そう思っていたのである。
波風を立てないように。 家庭を壊さないように。
私は、自分の気持ちを後回しにしながら耐えていた。
だが――
その空気に最初に耐えられなくなったのは、私ではなかった。
まだ幼かった娘だったのである。
「もうママとは一緒にいられない!」
そう言ったのは、他でもない娘だった。
私は、互いに冷却期間が必要なのだと思い、妻を実家へ帰した。
だがその後、実家から毎日のように電話がかかってくるようになった。
私は責められても、本当の事を言う事が出来なかった。
誰かを悪者にしてしまう気がしたからである。
ある日、私が一方的に責められている時だった。
塾から帰って来た娘が、突然受話器を取った。 そして泣きながら叫んだ。
「パパは悪くないの!」
私は、あの時の娘の声を今でも忘れる事が出来ない。
その一言で、すべてが露呈したのだと思う。
それ以来、実家から電話がかかって来る事は無くなった。
そして――私たちは別々の道を歩む事となった。
今になって思う。
そんな妻にしてしまったのも、きっと私の責任だったのだと。
私は、誰かを守ろうとするあまり、
本当の意味で、誰とも向き合えていなかったのかもしれない。
娘と踊った日
離婚をしてからも、私は娘との時間だけは失いたくないと思っていた。
娘は幼い頃からバレエを習っていた。
私は、そんな娘が舞台で踊る姿を、
客席から静かに見守る事が小さな夢だった。
ライトを浴びながら踊る娘は、
私にとって何よりも眩しい存在だったのである。
だから私は、それだけで十分だと思っていた。
娘が笑ってくれるなら。 娘が自分の夢へ向かって歩いてくれるなら。
私は、それを遠くから見守れれば良いのだと。
だが人生は、時に思いもよらない形で、景色を変えていく。
ある日、私は娘と一緒に、
社交ダンスのパーティーでデモンストレーションを踊る事になった。
もともと、母を守ろうとして始めた社交ダンスだった。
だから私は、まさか自分が娘と並んで踊る日が来るなど、
想像した事も無かった。
ライトを浴びながら、娘と一緒に踊った時間。
私は、その瞬間に思ったのである。
ああ――あの頃の時間も、間違いではなかったのかもしれないと。
母を守ろうとした日々も。
空気に振り回されながら、必死に踊っていた時間も。
苦しみながら、人との間で揺れ続けていた人生も。
すべてが、この瞬間へ繋がっていたのかもしれないと。
人は、過去の答えを、その時にはまだ知らない。
遠回りに見えたものが、別の景色へ繋がっている事もある。
だから人生は、白か黒かだけでは語れないのだと思う。
空気の中で生きる
私は昔から、空気を読む人間だった。
会議の席でもそうだった。
現場でもそうだった。
誰が何を考えているのか。
誰が何を言いたいのに言えないでいるのか。
そんなことばかり気になっていた。
ある会議のことを今でも覚えている。
工程の見直しについて話し合っていた時だった。
現場の状況を知っている私には、
その計画が無理のあるものだと分かっていた。
だが会議室は静かだった。
上司もいる。
取引先もいる。
誰も反対しない。
皆が資料を見つめたまま黙っていた。
私も迷った。
ここで言えば空気が変わる。
面倒な人間だと思われるかもしれない。
それでも、現場で苦労する人たちの顔が浮かんだ。
私は意を決して口を開いた。
「この工程では厳しいと思います」
その瞬間、会議室の空気が止まったように感じた。
重たい沈黙だった。
だが後になって、何人かが私のところへ来て言った。
「本当は私もそう思っていました」
その時に気づいた。
空気を読むことは大切だ。
だが、空気に流されることとは違う。
人は組織の中で生きている。
だから周囲との調和は必要だ。
しかし、誰も言わないことを言う人間も必要なのだと思う。
それからも私は何度も迷った。
言うべきか。
黙るべきか。
前に出るべきか。
引くべきか。
正解は今でも分からない。
ただ一つ言えることがある。
空気を読むことは、人に合わせることではない。
その場にいる人たちが本当に大切にしたいものは何かを考えることなのだ。
私は六十年以上生きてきた。
振り返れば、いつも空気の中で生きてきた。
そしてその空気の中で、人の優しさも見た。
弱さも見た。
表も見た。
裏も見た。
だから今、こうして言葉を書いている。
人は皆、見えている姿だけで生きているわけではない。
その奥にある想いや葛藤を抱えながら、
それぞれの人生を歩いているのである。
noteを書き始めた理由
そんな私が文章を書くようになったのは、人生を整理したかったからなのかもしれない。
人の表と裏。 正しさと弱さ。 優しさと残酷さ。
そういうものを、私はずっと見続けて来た気がしている。
そして気づけば、自分自身もまた、その狭間で揺れながら生きていた。
私は、特別強い人間ではない。 むしろ、流されながら生きてきた人間だと思う。
だからこそ、同じように苦しんでいる人を見ると、放っておけなくなる。
弱い人。 孤独な人。 誰にも本音を言えない人。 表では笑っていても、裏では泣いている人。
そういう人たちが、世の中には思っている以上に沢山いる事を、私は知っている。
だから私は、noteを書くようになった。
立派な答えを書きたい訳ではない。 誰かを裁きたい訳でもない。
ただ、「こんな人間も居るんだ」と。 揺れながら、迷いながら、それでも何とか生きている人間も居るのだと。
そう伝えたかったのである。
人は皆、弱さを抱えている。 だが本当に苦しいのは、弱い事ではない。 弱さを見せられない事なのかもしれない。
だから私は、これからも、綺麗事だけではない、人間の表と裏を書いていきたいと思っている。
静かな始まり
振り返れば、
人生は思っていたほど単純ではなかった。
正しいと思ったことが、
誰かを苦しめることもあった。
守ろうとしたものが、
別の誰かを傷つけていたこともあった。
それでも――
表と裏の狭間で迷いながら、
私は少しずつ人を知り、
少しずつ自分を知ってきた。
そして今もなお、
その答えを探し続けている。
人生に完成はない。
だからこそ、
今日もまた問い続ける。
何を守るのか。
何を手放すのか。
どう在るのか。
その問いを抱えながら、
これからも歩いていくのだと思う。
だから――
私もまた、自分の未踏の道を歩いていこう。
静かに。
そして、舞うように。