
戦国コンプライアンス禄|序章
正しさの行方
正しいことを言えば、世界は少し良くなる。
陣内孝太郎は、ずっとそう信じて生きてきた。
厚生労働省・監査部門。
規律と配慮がすべてに優先される場所。 不用意な一言が問題となり、
軽い雑談さえも慎重に選ばなければならない時代。
「その発言は、コンプライアンス上問題があります」
会議室に響く自分の声は、 まるで温度のない報告書のようだった。
誰も反論しない。 誰も賛同もしない。
ただ、空気だけが静かに冷えていく。
正しいことを言っているはずなのに、
なぜか胸の奥に、わずかな違和感が残る。
昼休み。 無機質なオフィスで一人、弁当の蓋を開ける。
周囲の会話は、どれも慎重に整えられた言葉ばかり。
誰も踏み込まない。 誰も踏み込ませない。
安全で、正しくて、そして――どこか寂しい。
(昔は、どうだったんだろうな)
曖昧さが許され、 ふとした笑顔から恋が芽生え、
酒の席の空気が縁をつないだ時代。
そこには不完全さがあり、 だからこそ、人と人の距離が近かった。
だが現代は違う。 曖昧さは排除され、境界線は明確に引かれる。
それは正義であり、同時に、孤独の制度化でもあった。
夜。 ワンルームの部屋で、 陣内はスマートフォンの画面を見つめる。
マッチングアプリ。 笑顔の写真。軽い自己紹介。 指を滑らせる。止まる。 ――違う。 理由は説明できない。 ただ、心が動かない。
正しさを守っているはずなのに、 人生はどこか空回りしていた。
そのとき、通知が鳴る。
「至急、地下フロアへ来てください」
低い声だった。 業務連絡ではない。 もっと深い、何かを含んだ声。
厚生労働省・地下施設。 通常業務では立ち入ることのない階層。
無機質な照明。 長い廊下。 重厚な扉。
「ここから先は極秘です」
扉が開くと、そこには見たこともない装置があった。
円形の空間。 青白い光。 無数のパネル。
まるで“時間そのもの”を扱う場所のようだった。
「時空間監査室です」
静かに説明する男の声は、 どこか人間らしさの薄い響きを持っていた。
「我々は、過去の出来事を監査しています。
過去における“問題行動”を、現代基準で是正する」
陣内は息を呑む。
「……歴史を、正すんですか」
「はい。 そして――あなたに、その実行をお願いしたい」
青白い光が揺れる。 陣内の胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
正しさは、人を救うのか。 それとも、縛るのか。
その答えを求めるように、 陣内は装置の中央へ歩み出た。
ここから、彼の“監査”が始まる。 歴史を正すための旅が――。