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笑わせてください【創作】

    財布野紐ゆるみ

    舞台袖には独特の匂いがある。古い木材と、ガムテープと、照明の熱。

    その匂いを吸い込むたび、俺は「今日も勝った」と思う。今日も満員、チケットも完売。客席には俺を理解している人間しかいない。

    「テレビじゃ言えへん話をします。」

    そう言うだけで笑いが起きる。

    「最近、また素人がなんか言うてて。」

    拍手。客はもっと笑う。

    「YouTubeで芸人ごっこしてる奴とかおるやろ? テレビにも出てへん奴が、お笑い語んなっちゅーねん。」

    爆笑の渦が巻き起こる。

    俺は気持ちよかった。笑いは才能だ。分からない奴には、一生分からない。だから分かる奴だけ相手にすればいい。

    それが一番効率がよくて、一番気持ちいい。

    ライブが終わると、相方は楽屋へ戻っていった。

    そこで、スタッフに声を掛けられた気がした。

    「次、お願いします。」

    振り返ると、誰もいない。廊下だけが伸びている。

    見覚えのない扉がひとつ。

    「出演者入口」

    こんなの、あったか?

    開ける。暗転。

    照明が落ちたとき、ふっと周りの空気が変わった感覚があった。

    * * *

    ぱらぱらと拍手が聞こえる。スポットライト。俺は舞台の中央に立っていた。

    知らない劇場で、客席は満席状態だった。さっきとは違う、知らない客。でも全員、こちらを見ている。

    そして、妙に静かだった。

    さっきライブを終えたところだぞ。相方もいない。

    司会らしき男が、袖から現れる。

    「それでは。本日の出演者です。どうぞ。」

    それだけ言って、消えた。

    ……まあいい。

    地方営業なら、こういうこともある。

    お笑いの賞レースで結果を残してからは、テレビに出ずっぱりでこんな空気を味わうこともなくなっていた。だが俺は、単独でのライブも定期的にやっている。

    俺は笑顔を作る。

    「どうもー!」

    ……無音。

    「いやいや! ここの客、めっちゃ重いやん!」

    ……。

    誰も笑わない。まあ最初はこんなもんだ。空気をちょっとずつあっためて、こちらのペースに引き込む。

    舞台中央に配置されていたのは、フリップだ。いわゆるめくり芸が、俺の得意のネタ。文字や絵が描き込まれた状態で、脇にうず高く積まれている。数は、百枚近くあった。

    漫談のように語り掛け、最初はスローペースで。軽い笑いだけでも引き起こせれば、そのあとにつながっていく。

    一枚目。

    二枚目。

    三枚目……。

    全部、無音。

    ひとりで話し、めくり、ツッコんだ。そのたび、静寂があたりを包む。

    めくり芸は、笑いどころが分かりやすいのがウリなはずだ。ツッコミの言葉のチョイスも、言い方の鋭さも。俺が、考えに考え抜いたもの。なのに、空気が動かない。

    客はスマホを見ることもない。居眠りもしない。全員、俺だけを見ている。照明の落ちた客席に、無数の目だけが浮いていた。

    「……今日は手強いですねえ。」

    乾いた声だけが響く。反応もない。

    一番前の男が手を挙げた。単独ライブでは、客を指名して発言させる機会が稀にある。俺は、そいつに話すよう促すと、おもむろに立ち上がって言った。

    「あの、まだ続けますか。」

    なめられているように感じ、血管がぴくついたのが分かる。素人のくせに、偉そうに。俺より、しょうもない人間が。

    俺は頷く。

    「そりゃ、当然ですよ。」
    「お願いします。プロなんですから。」

    その男は静かに言い、座った。

    五分。十分。……十五分。

    一度も笑いは起きなかった。汗が背中を流れる。こんなことは、初めてだ。声のトーンを変えまいと意識すればするほど、平常心が大きく揺らいでいった。

    客席を見渡すと、ふと異変に気付く。知らない顔ぶれだと思っていた。……だが、どこかで見た顔だった。

    ゲーム実況者。

    昔、番組で笑い者にした奴だ。

    「ゲームしてるだけやん。それで食う飯、美味いか?」

    スタジオが笑う。実況者も、笑っていた。笑っていたけど、笑い終わったあと、一瞬だけすっと口角が下がった。

    そのときの顔のままで、今、客席に座っている。

    その隣。アイドル。

    「芸人に媚びてるだけやろ!」

    そう、ラジオでバッサリ切り捨てた。

    SNSで、彼女はその件に触れたあと、しばらく情報発信が少なくなったと人づてに聞いた。

    その後ろ。

    漫画家。配信者。インフルエンサー。

    腕を組み、こちらに視線を投げかけて並んでいる。

    スポーツ選手。評論家。一般人。新人芸人。

    笑顔からほど遠い表情が、整然と陳列されていた。

    誰もが、どこかで俺が言葉を投げた相手だった。ネタにした。笑いになった。そしてそれが、俺の次の仕事につながった。

    「あ……。」

    客席が少しざわつく。

    「気付いた?」
    「気付いたみたい。」
    「始めましょうか……。」

    誰も怒っていない。誰も睨んでいない。みんな、穏やかな顔だった。

    「あの……。」

    ひとりの女性が片手を挙げて、立ち上がる。

    「私は素人なので。笑うタイミングを教えていただけますか?」

    周囲で、小さく笑いが漏れる。

    いや、笑いじゃない。息か。

    俺は、言葉に詰まる。ひゅっという音だけが、口の端から漏れた気がした。別の男が続く。

    「テレビでは大ウケ……でしたよね。今日は違うんですか?」

    また静寂。俺は急いで、次のフリップを出す。

    めくる。無音。

    めくる。無音。

    めくる。無音。

    * * *

    司会が戻ってきた。

    「一本、終了です。」

    拍手。ぱらぱらと、小雨程度に鳴っている。

    いや……拍手ではない。ただ、無感情で手を叩いているだけだ。

    「さて、講評をお願いします。」

    誰に向かって?

    最前列の老人が立つ。

    「こほん、意味は分かりましたよ。ただ、面白くはない。

     フリップをそんなにたくさん描いて、ご苦労様でした。しかし、ここにいる誰ひとりの感情も動かせなかった。

     それは、非常に残念ですね。」

    音もなく、座る。それで終わり。

    さわさわとまた、舞台が息づく。

    「やはり、才能がない我々には、彼の笑いは理解できないのかもしれない。」
    「まあ通常は、無条件で自分のネタを笑うファンだけで会場を埋めるでしょうから。今回ばかりはね……。」
    「テレビでやっているみたいに、誰かを小馬鹿にすれば笑う人もいるかしら。」
    「しかし彼は、反論しない相手にしか噛みつきませんよ。」

    別の客が言った。

    「あの、次をお願いします。プロの笑いを、見せてください。」

    * * *

    喉が焼けるように熱く、口が乾いてへばりつく。手が震えて、フリップがめくれない。

    めくる。無音。

    それを合図に、観客が声を発した。いつの間にか、フリップをめくってネタを披露するたびに、誰かの声が挟まるようになっていた。

    「いつもは、あなたを理解しない人間を素人って言ってましたよね。」
    「私たちがその素人です。」
    「だから。分かるまでお願いします。あなたで、笑わせてください。」

    俺は、最後の一枚をめくる。口から出たフレーズは、まるで別の誰かが言ったかのように聞こえた。キレがなく、間も悪い。まさに素人レベルのツッコミだった。

    ……沈黙。

    俺は立ち尽くす。

    もうない。全部やった。もう、たくさんだ。

    「どうも、ありがとうございましたぁ……。」

    ぺこりと頭を下げた。俺は床を睨みつけていた。拍手は、聞こえなかった。今までにない感情が、胸の中で黒煙のように渦を巻いていた。

    だが、これでようやく解放される。

    笑いは取れなかった。だが、この状況だ。誰だってこうなるだろう。俺の才能がないわけじゃない……。

    とっとと、照明を落としてくれ。

    司会が袖を向く。

    「おい、追加だ。」

    スタッフらしき人が台車を押してくる。積まれているのは真っ白なフリップ。絵も、文字も、何も書かれていない。

    五十、六十……百枚はある。

    「どうぞ。」

    司会が笑顔で言う。

    正気か……。演者が終わりだ、って言ってるんだぞ。

    こいつ、と拳を握りしめたところで、客席から、わっと拍手が起こった。割れるような轟音。この会場で聞いた中では、一番だった。

    ぷつりと、何かが切れる音がした。

    「……お前らなあ!!」

    気づけば、かすれた声で俺は怒鳴っていた。拍手が少しずつおさまる。

    「笑う気ィ無い奴になんでネタ見せなあかんねん! いつもの俺やったらなあ……!!」

    きょとん、とした顔のまま客が言う。

    「そうですよ。」
    「だから、今日は公平なんじゃないですか。」
    「笑えない人を笑わせる。まさに芸人の真骨頂ですね。」

    俺は、開いた口がふさがらないまま、舞台で光を浴びていた。

    ざわざわ。

    「まだ時間はたっぷりあります。」
    「あなたは売れっ子でしょう?」
    「賞も獲りましたよね。お笑いのプロだ。」
    「私たちは、お客さんです。」
    「ですから。」

    どんどん大きくなっていく。

    物音。声。息づかい。

    いつの間にか、客席にいた観客たちは舞台上に集まってきていた。白紙のフリップを各々が手に取り、そのうちのひとりが一枚、俺の手に握らせる。

    「さ、次のフリップをお願いしますよ。」

    客席全員が、静かに頷く。

    白紙のフリップとペンだけが、俺の手の中にあった。


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