
最後の一針【創作】
大学の印刷室には、手の届かない棚にまで書類が並んでいた。あまり嗅いだことのないはずなのに、田舎を想起させるような匂いがする。
学生が集まってビラを刷り、誰かの車に荷物を積んで遠くまで出かける。そんなことを、みんな当然のようにやっていた。
ごうんごうんという機械音とともに、その印刷機は同じことが書かれた紙を吐き出していた。
俺はひとつしかない椅子に座って、大量のパンフレットをホッチキスで留める。仲間をもっと集めた方が、効率はいいだろう。でも、この方が性に合っていた。
一部、二部、三部……。
ばちん、ばちんという紙を綴じる音が、機械の音に応えるように鳴る。
ホッチキスは使い慣れていた。
ばちん。
右手が止まる。少し、反動が軽い気がした。
今ので最後だ。
最後の一針だけ、感触が違う。俺はそれを覚えていた。
* * *
印刷された紙の束は、集会会場で配るためのものだった。
彼女も来ていた。日傘を差していて、表情はよく見えない。パンフレットを受け取るためではなく、俺を迎えに来たようだった。
「まだやってるの?」
「あとちょっとだけ。」
でも、彼女はわかっていたんだろう。「あとちょっと」が長くなることを。彼女は、俺の脇にある紙の束を一瞥してから、よそを向いた。
俺は、誰かに頼まれると断れない。頼られているうちは、自分が何かの役に立っていると自覚できたし、余計なことを考えなくて済んだ。
だが、受け取るだけでタダの紙を、受け取ることすら拒否する輩がこんなにも多いことには、正直いって少々辟易していた。
「これ配り終わったら帰るから。先に帰っててくれ。」
彼女は待っていた。陽の当たらない場所で、しばらくの間。
ようやく配り終えたころ、木の下に彼女の姿はなかった。
* * *
手渡した紙の行方なんぞ知る由もない。もし、そのまますべて捨てられただけなのであれば、今日の収穫は衣類についた汗と泥くらいのものだっただろう。
それでも俺の部屋では、集会がひとつ終わったら、結局次の集会の話になる。
今度は、少し危ない場所での活動だった。
彼女は机の上に置かれたパンフレットを裏返す。何度も出てくる知らない場所の名前に、視線を落としていた。
彼女は、いつもの顔で聞く。
「行くの?」
「たぶん。」
大体、俺の方の答えも同じだった。
「危ないんじゃない?」
「まあ、でもさ……。」
彼女が、俺の言葉の続きを引き受けた。
「『誰かがやらないと』?」
こちらを見ていなかった。俺は頷く。
考えていることは想像がついた。かつて、集会のあとで俺が知らない男に車へ押し込まれそうになったこと。あれを気にしているのだろう。
だが、あのときも、何とかなった。振り返ってみて、危ないところだったと俺は周りに笑って話したが、彼女だけは笑わなかった。
「じゃあ行けば。」
それだけ返ってきた。別に、怒っているわけではない。一緒にいることを選んでくれたときから。彼女はおそらく、わかってくれていた。
俺だってあのとき、駅で泣かれたことを忘れているわけではない。
* * *
俺ひとりの部屋が、ふたりの部屋になってから。もう半年が経っていた。彼女の荷物は少しずつ増えた。けれど俺の活動の荷物は、変わらず床や机の上を占領したままだ。
彼女は冷蔵庫を開ける。
「お茶飲む?」
「いや、いらない。」
俺は、次の現場に必要な紙を綴じていた。目の前の丸机の上には、紙と芯と、ホッチキスだけがある。
ばちん。
手の中で、ホッチキスが鳴る。今のが最後だったような気もしたが、自信が持てなかった。まだ、紙は残っている。
そのとき冷蔵庫の中で、かちゃんと硝子が軽く触れるような冷たい音がした。
ぱたん。
扉を閉める音が続く。
ふと手を留めて、そちらを見る。いつもの音と違った気がする。少しだけ、音が軽いような。
彼女は俺の視線に気づくこともなく、音の消えた部屋で、冷たいお茶を喉に流し込んでいる。
そばには、空になった冷水筒が置かれていた。