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そっと、ひと押し【創作】

    財布野紐ゆるみ

    昼下がりのオフィス。
    書類をまとめ終えたわたしは、机の端に置いた電話の受話器をちらりと見る。
    取引先に一本かけなければならないのに、頭のなかで「いつもお世話になっております。✕✕株式会社の...…」と同じ言葉をぐるぐる反芻して、なかなか指が動かない。深呼吸をしては止まり、また文章を頭の中で並べ替えてしまう。

    気づけば、もう休憩の時間が過ぎている。
    どうしても、書類整理や経理の仕事を優先させてしまって、報告や相談、連絡は後回しにしてしまう。
    わたしの悪い癖だとわかってはいたけど、自分ではどうすることもできないとも思っていた。

    「また詰まってるの?」

    声をかけてきたのは、同じ部署の先輩。仕事をテキパキこなし、誰とでも軽やかに会話できるように見える「しごでき」の人だ。わたしは少し恥ずかしくなって小さくうなずいた。

    先輩はにこりと笑って、メモ帳を差し出す。
    「電話はね、頭で覚えようとしなくていいの。『お世話になります』から最後まで、一言一句ぜんぶ書いちゃうの。で、それを見ながらかける。台本を読むみたいにすれば、意外と気持ちが楽になるよ。」

    「じゃあ、メールは……?」と恐る恐る聞くと、先輩は自分のパソコン画面をちらっと見せてくれた。
    「送るのって勇気いるでしょ? わたしも新人の頃そうだった。だから一度書いてみて、すぐには送らない。予約送信しておくの。『午後の2時』とかね。そうすると、『送信ボタンを押しちゃった自分』が勝手に背中を押してくれるわよ。」

    わたしは目を丸くした。
    「先輩でも、昔はそうだったんですか?」
    「もちろん。失敗したくないからこそ、何度も推敲して時間オーバーしちゃったりね。みんな通る道だよ。」

    その言葉に、胸の中の重さがふっと軽くなる。
    先輩は生まれつきのコミュニケーションおばけなのだと思っていた。でも、悩んできた時期があったと知るだけで、不思議と安心できた。

    次に電話をかけるとき、わたしは先輩に教わったとおり台本をメモに書いた。受話器を握る手はまだ少し汗ばんでいたけれど、これまでよりもずっとスムーズに声が出せた。

    「意外と、自分の背中を押してあげる工夫ってあるんだな。」
    そんな発見が、じんわり嬉しく胸に広がった。

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