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空気の代わりに【創作】

    財布野紐ゆるみ

    お母さんが料理のためにワインの栓を開けると、ぽんと音がしてコルクが跳ねた。ぷはっと水中から顔をあげたときみたいに、空気の中に香りが逃げる。

    そのまま置いておくと、ワインはアルコール分だって少し飛ぶ。

    せっかく閉じ込めたのに、逃げてしまう。それがなんだか、少し寂しい。

    グラスの底には、まだ赤い筋が残っていた。きっとそこには、甘さも、酸っぱさも、ちゃんとある。

    それでも、さっきまであった何かだけが、もういなかった。

    * * *

    おじいさんは、ぶどう農家をしていた。

    「わしは、ただ作っているわけじゃあないんだ。」

    彼は決まってそう言った。

    土壌や天候、その年の雨量。収穫の判断にかかわる部分は多岐にわたる。

    他にも、冬の剪定。どの枝を残すかを選別することが、翌年の品質や収穫量に大きくかかわるなんて、私はまったく知らなかった。

    でも世の中のものは、そんな人間の判断の積み重ねで、よりよくなっていっている。……ことも、多いのかもしれない。

    私には、ワインの良さはまだわからない。お父さんに飲ませてもらったこともある。でも、少し濃くて苦くて、そのときの気持ちは、味わうよりも少し遠いところにあった気がする。

    * * *

    「おじいさん。」
    「なんだい。」
    「おじいさんが、美味しくなるように、いっぱい考えた気持ちは、できあがったワインに溶けているの?」

    おじいさんは困ったように笑う。

    「さあ、それはわからんがね。」
    「でも、そうでないと。そんなに考えて、悩んで、切って捨てて。それが瓶に入らないなら、何のためだったんだろうって……。」

    ぶどうを一粒口に運ぶときに、ぶどうジュースを一口飲むときに、そんなことをいちいち想像できる人なんていないと思う。でも、誰かが考えた事実や、込めた思いまで、空に溶けてなくなってしまったなんて思いたくはなかった。

    どうして自分でも、そこまでこだわっているかはわからなかった。諭すように、おじいさんは言った。

    「わしは、届く人にだけ届けばいいと思っとるよ。」
    「……どういうこと?」

    手を止めて、おじいさんは私の横に腰かけ、私にも座るようにうながした。

    「さっき言ったように、ぶどうを作っとるときのわしらの気持ちが、ワインの中に溶け込んでいるかは正直わからん。」

    私は膝元のスカートのうえで手を握って、そこにできるしわを見つめていた。

    「でもな。ワインは、保存方法を間違えなければ、何年も先まで飲むことができるだろ。

     ここぞというときに美味しく飲むために大事に取っておいた人が、栓を抜いたとき。空気の代わりに何かが戻ることは、あるかもしれんわな。」

    おじいさんの方を見ても、前を向くばかりで考えが読めなかった。麦わら帽子の影が、彼の表情を隠している。わかるような、わからないような気持ち。

    「でも、ワインのことはよくわからないわ。」

    私が言うと、おじいさんはこちらを向いた。

    「別に、ぶどうのままでもだよ。お前が友達に、バスケットに入れたぶどうを届けたことがあったろう。ふたりで分けて、その場で全部食べちまったって言っていたな。そのとき、どんな気持ちだった?」
    「そりゃあ、美味しかったし、お喋りして、楽しかったわ。」

    おじいさんの表情が緩む。

    「そうだろう。そういうところに、残るもんなのかもしれんな。」

    日差しが少し、強くなってきた。おじいさんは麦わら帽子を使って、うちわがわりにあおぐ。

    すっと立ち上がって、言った。

    「じゃあ私、今度試してみるわ。」
    「何をだ?」
    「何年も、大事にワインを取っておいて。そのあとで開けて。そこにおじいさんの気持ちが残っているか、試してみる。」

    おじいさんも、自身の膝に手をやって、立ち上がる。私は片手を差し出して、少しだけそこに力を入れた。

    「ああ、それがいい。試してみたら、ぜひ教えてくれ。」

    おじいさんは笑っていた。

    私は本当は今知りたかったけれど。このもやもやの正体が、いつか未来にわかるときがくるのなら。

    私は足元に転がったぶどうの皮を拾って、指先でつまんだ。紫色が少しだけ爪の方に移る。ワインの良さがわかるのも、まだ少し先でいいのだと思えた。


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