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十七人の集合写真【第十話 桜】

    財布野紐ゆるみ


    第十話 桜


    件名:集合写真撮影のお知らせ

    研究室全体のグループアドレス宛のメールが送付された。日本語と英語の順で、写真撮影の日時が案内されている。

    五十嵐先生からすぐさま返信が入る。

    「英語が先では?」

    そんな一文。

    「このメールはどういう意味ですかね……。」

    松本と逢坂で、こそっと話す。協議の結果、「留学生人数が増えてきたし、全体周知は英語から日本語の順で記載してはどうか」という提案だろうという結論に至った。

    「また、先生は勝手なことを言って。留学生はまだ七人でしょう。日本人の方が多いのに。」
    「まあまあ、次から言われた通りやっておきましょう。」

    松本が教授にぼやくことができるようになってきたのも、逢坂にしてみればいい兆候だった。次のステップはきっと、そんな曖昧で唐突な指示を楽しめるようになることだ。

    毎年恒例。桜の木が並ぶ場所で撮る写真。

    研究室に鍵をかけて、みんなでキャンパス内のスポットへ。今日は天気もいいから、花見をしている人たちもいるかもしれない。

    お喋りしながら歩く、留学生たちや共同研究の職員らを急かすように。逢坂は首から提げた一眼レフのカメラを小さく揺らして、早歩きで先導した。

    研究室の経費で買った、とっておきのデジカメ。使いこなせるかどうかはともかく、五十嵐研の貴重な資産だ。

    懐かしいな。

    初年度、ばたばたしながらも最初に撮った写真に写っていたのは、五十嵐教授と事務の逢坂、技術の穂波の、たった三人。集合写真というよりは、なんとなく風景を切り取ったひとコマみたいだった。

    あのときは三脚とカメラがうまく扱えなくて、結局通行人にお願いしてタブレットで撮ってもらったっけ。

    アルが少し後ろを歩いていた。写真を撮るというと、彼はスーツを着込んできた。はじめて空港で会ったときの、あの格好だ。アルは、心配そうに逢坂に尋ねた。

    「眼鏡を、忘れましたか?」

    逢坂はふっと笑った。

    「コンタクトにしてきたんだよ。」

    逢坂は、アルの後方をちらっと見てから、そっと声をかけた。

    「……来週の約束、忘れないでよ。」
    「もちろんですよ。楽しみです。」

    なんとなく、他の誰にもこの約束のことは話していない。

    アスファルトの道が、徐々に芝生に変わる。アルの歩きは静かで、足音は芝生に吸い込まれて響かない。吹いた風が、彼を通り抜けた気がした。けれど服の裾も、髪も、揺れなかった。

    * * *

    桜の木の前。

    研究室メンバー全員。十七人が揃ったのは、奇跡に近かった。

    四月からの韓国の研究生も、中国の修士課程学生も。ビザの発行が遅れれば入国時期がずれ込む可能性はあった。

    共同研究の直江先生、吉澤先生。このふたりに関しては主所属が他機関だから、そもそも来られる日が限られている。

    「この三脚ってどうやって使うんですかあ。」

    松本が、良いスポットを見つけたものの三脚の設置にてこずっていた。技術の新井が、カメラの画角に入るよう他のメンバーを誘導している。

    逢坂は松本に近づき、カメラを預ける。手際よく三脚の足をそれぞれ伸ばして、芝生の斜面の角度に合わせて傾きを調整した。

    撮影場所にはおおよそメンバーが固まっていた。さわさわという木々のざわめきに、一同の話し声が混じる。逢坂が三脚の設置を終えたころ、少し大きな風が吹いた。

    「わっ。」

    桜の花が、吹雪く。アルが、懐から祖父のフィルムカメラを取り出し、逢坂の方に向けてシャッターを切った。手の中でカシャリ、と小さな音が響く。

    * * *

    三脚にはデジカメがセットされ、いよいよ写真撮影の運びとなった。

    「ちょっとアル! 顔が怖いよー。もっと笑って!」

    逢坂の呼びかけで、笑い声が辺りに広がる。

    ファインダーを覗き込む逢坂が、十秒のセルフタイマー設定をしてシャッターを切った。

    「十、九、八……。」

    カメラの光が点滅する中、逢坂がこちらに向かって駆ける。

    「五、四、三……。」

    それにつれて、アルの視界は少しずつ白く霞んでいく。隣の声が、遠くなる。

    パシャッ。

    乾いた音とともに、写真が撮影された。その空間にいた人々の存在と、空を舞う桜の花びらの場所を記憶して、一枚に閉じ込める。

    画像データをその場で確認する。メンバーは全員、笑顔だ。目をつぶっている者もいない。

    「完璧じゃん。撮り直しも必要ないんじゃない?」

    横から覗いて確認したのは、技術の穂波。隣で逢坂も確認し、眉をひそめる。中央に少し、空間があるような気がした。

    全員写っている。数え間違いもないはずだ。思わずこぼす。

    「…… 誰か、足りなくありません?」
    「いや、これで全員ですよ。」

    松本と、五十嵐先生が声を揃えた。

    * * *

    撮影後、研究室のWebサイトに写真がアップロードされた。

    開発されたソフトウェアやデータベースについてのページは技術スタッフの担当だが、文献の管理やギャラリーのページについては事務が更新を担当していた。

    写真データをトリミングする方法と、アップロードまでの流れを松本に共有しつつ、逢坂は公開ボタンをクリックした。

    そこに写っているのは十六名。今、研究室に所属している全員だ。昨年の十月に来る予定だった留学生の姿は、そこにはなかった。

    松本がアップされた写真を見ながら、こぼす。

    「レルメドールの彼、残念でしたね。もう少しで来られたのに。」
    「……仕方ないですよ。最後の最後に、連絡がつかなくなっちゃいましたからね。」

    入学手続きはなくなった。奨学金の推薦枠として正式に決まったころ、彼の国の情勢悪化についてはニュースで盛んに報じられていた。

    逢坂は、誓約書に署名したスキャンデータを先に送るように、とメールで伝えていた。署名した原本は、来日するときに必ず持ってきてください、とも。メールは、何通も重ねて送った。

    しかし結局、返事はこなかった。オンライン面談で一度だけ顔を見た記憶が思い浮かぶ。彼が熱弁を振るっていた研究。魚の画像。解析結果のデータ。詳細はわからなかったけれど、その先に、一体どんな成果や社会実装があったのだろう。

    「向こうで、無事だといいですけど。」

    Webサイトの編集画面を閉じようとしたときだった。アップロードした写真の中に、撮った覚えのないものがあった。

    「あら? この写真は……。」

    逢坂が、三脚の前で手を額にかざし、空を仰いでいるようなショットだった。他に人物は写っていない。

    切り取られたその一瞬は、自分の知らない自分だった。束ねていなかった髪が横にふわりと流れ、周りを囲むように桜の花が舞っている。ピンク色の鮮やかさが、胸を突いた。

    なんだか、眩しい。

    カーソルが、画面の端で震えていた。どうして今日、家を出る前にコンタクトにしようと思ったんだっけ。

    「いい写真じゃないですか。誰が撮ったんでしょう?」
    「さあ……。」

    逢坂自身、撮られた覚えはない。けれど遠くで、なにか知っていたような気がする。ずっと前から。

    * * *

    研究室の入口にある水槽では、相変わらず魚が群れて泳いでいた。いつもは、エアポンプが空気を送る音が部屋から途切れないくらい、居室でみな静かに各々の作業をする。

    しかし、今日は珍しく全員揃った日だ。ほんの少しだけ、賑やかだった。ホワイトボードの前で、今の研究で困っていることを相談する留学生たち。それを座りながら聞いている共同研究の先生と職員。意見する助教の先生。

    技術スタッフの中には、煙草を吸うために離席している者。黙々と作業を続ける者、そして相変わらず、うとうとして寝てしまいそうな者もいた。

    五十嵐先生は今日も、他機関の先生と新規で進める研究計画の話をしている。共同研究契約の進め方について、彼から事務のアドレスに依頼がきていた。文面は「確認ください」の一言だけ。

    「逢坂さん。前も五十嵐先生、同じこと聞いてませんでしたっけ? 契約依頼の様式を先方から提出してもらって、部局受入手続きが終わってから、本部の契約担当に回すんですよね。」

    松本も、ずいぶんこの仕事に慣れた。経費関係と旅費以外の業務も、手際よくこなせている。逢坂は、少し考えてから答える。

    「ええ、そうなんですけど……。今回の依頼元が、海外企業の日本支社っぽいんですよね。先に、研究推進係に電話してみてもいいかもしれません。海外関係だと、先に法務に確認とるかもしれないんで。」
    「色々あるんですねえ。承知しました。電話してみて、そのあと先生に報告しますね。」
    「お願いします。」

    逢坂は休憩のため、居室を出て共用スペースへ向かった。そこのレンジに弁当を入れてスイッチを入れ、備え付けのソファに腰かける。

    レンジのターンテーブルが周り、静かな時間が流れていた。

    研究室も、人が増えると少し空気がこもるし、呼吸もしづらくなる。逢坂はそばの窓を開けて、深呼吸をした。

    ふとスマホのカレンダーを見ると、翌週の休日に予定が入っていた。もちろん、入れたのは自分だ。

    「水族館」

    ……これ、どうして入れたんだっけ。

    かなり前に入れた予定だったのか。普段なら、誰との約束か、とかの詳細まで書くのに。名前も時刻も、空欄になっているようだった。

    誰かと約束していた気がする。でも思い出せない。

    間違えて入れたのかな。

    削除を選んで、タップしようとする。なのに、途中で手が止まる。なぜか消せない。消したくない。

    どこか胸の奥がきゅっと締め付けられる。理由のわからない喪失感だけがそこに残っていた。

    『忘れたなら、きっと大したことじゃないんですよ。』

    それは、何の作業をしようとしていたか忘れた、と言う松本に、逢坂がよくかけていた言葉だった。

    仕事なら、やるべきことならあとからでも思い出せることが多い。でも、今思い出せない気持ちは、そんな言葉では簡単に振り切ることができないくらい、大事なことのような気がした。

    レンジが止まり、ピーピーと音を立てる。

    逢坂は慌てて席を立ち、レンジの扉に手をかけた。お弁当の温かい匂いが広がる。

    窓の外では風が吹いている。砂埃を含まない、きれいな風。

    桜の花びらが舞っていた。


    終章 十七人の集合写真


    「これ、シュレッダーかけるの忘れてました。」

    逢坂は、机から「アルシェド・ラミザフ」と書かれた履歴書や業績一覧等の写しを出して、言った。

    「あ、かけなきゃですね、個人情報ですもんね。」

    松本も同調する。

    「逢坂さんは、私みたいに、スキャナーに原本を残したまま忘れちゃったりしないですもんね……。」

    少し前に、留学生の在留カードのスキャンを取り、そのままプリンタに現物を残したままにしていたことで、松本は五十嵐先生に怒られていた。

    「もう。やさぐれないでくださいよ。」

    逢坂は笑って、プリンタのそばのシュレッダーに向かう。持っていたクリアファイルから、紙が少しはみ出していた。

    そこには受入を予定していたアルシェドの、研究生としての出願書類もあった。申請書からは、不機嫌そうな顔写真が覗いている。

    それを見てふと、手が止まる。シュレッダーの電源ボタンに指を添えたところだった。

    逢坂が見たのは、オンライン面談時の真面目な顔だけだった。彼は、笑うとどんな表情を浮かべたのだろう。

    電源ボタンに添えていた指を、そっと離した。処理済みにできないものが、この仕事にはある。そんな気がした。

    身体の向きを変え、研究室入口にあるロッカーに歩みを進める。それは、機密情報を保管するための鍵付きロッカーだった。学生の成績評価や、過去の試験問題、共同研究契約関連の書類などが収められている。

    「逢坂さん?」
    「これ、やっぱりもう少し取っておくことにします。」

    松本にそう答え、逢坂は彼の書類をファイリングし、ロッカー内の棚にあったボックスファイルに収めた。

    ファイルの背に、マジックで小さく年度を書く。ペン先が擦れる、きゅっ、きゅっという音が響く。書かれたのは、受け入れるはずだった前年度の数字だ。

    ぱたんと扉を閉じ、鍵を掛ける。視線をあげると、そのロッカーには、真新しいA3の用紙が貼られている。プリントされていたのは、直近の写真。桜の下の集合写真だ。

    十六人が、笑顔で顔を寄せ合って写っていた。

    こぽこぽと、ポンプの音が隣の水槽の方からから流れてくる。規則的で、小さくて。でも、何かが吹き込まれてくるような、そんな音。心臓の音を、かき消すみたいに。

    彼の笑顔は、見たことがない。履歴書も、申請書も、写っていたのは不機嫌そうな顔だけだった。

    でも、気づけば。逢坂の口から、水槽の底の最後の空気みたいな、かすかな声が漏れていた。

    「アル……?」

    ふっと、頭の奥で見たことのない笑顔がよぎった。

    そばにある、魚の泳ぐ水槽。中では相変わらず魚たちが、群れの数を変えながら泳いでいた。ガラス越しに、今日も魚たちの尾びれが光を返している。

    逢坂はデスクに戻る前に、水槽を泳ぐその数を、なんとなく数えた。

    以前と同じはずなのに、ひとつ足りないような気がした。


    (了)


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