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任意参加【創作】

    財布野紐ゆるみ

    ゼミ室の鍵が開く音を聞いたとき、僕はすでに廊下にいた。

    早すぎたと思ったが、かといって、引き返す理由を探すのも面倒だ。こんなとき、僕は何もできずに立ち止まる。できないまま、先にも進めない感覚が常に隣にあった。

    中に入ると、担当教員が窓際でブラインドを直している。一枚だけ、どうしても傾いてしまう部分があるらしく、何度も同じところを触っていた。

    「寒くないですか?」

    振り向かずに、尋ねられた。他にも部屋に、人はいる。質問の宛先が僕なのか、部屋全体なのかがわからない。

    「大丈夫です。」

    僕はそう答えた。大丈夫、という言葉は、いつも無難で安全な言葉だった。こう答えれば、聞き返されることもない。ただ、それはいつも、どの程度の温度を指しているのか、自分でも分からないままの言葉だった。

    教員はブラインドを諦め、今度はプロジェクターをつけようとして、リモコンを落とした。

    かたん、と小さな音が響く。電池は飛び出さなかった。

    拾い上げるまでの間、何も言わない。その沈黙に、僕は勝手に意味を探してしまう。リモコンの位置は、僕からは遠い。拾うべきなのか。頼まれもしないのに、差し出がましいだろうか。何も言われなければ、こちらから声をかけた方がいいのか。

    ……また、立ち止まる感覚。集中しているのか、疲労しているのか。自分でも、整理しきれていない。

    学生がぽつぽつと入ってきた。挨拶の声が重なり、誰かのバッグから鈴の音がした。誰のものかは見なかった。僕は、誰へというわけでもなく、その塊 に対して一度だけ挨拶を返していた。

    ゼミが始まる。議題は研究進捗の報告と、来月のイベント参加について。

    「参加は任意です。」

    教員はそう言い、空咳をひとつして、少し間を置いてから言葉を続けた。

    「ただ、経験としては悪くないと思います。」

    そのふたつの文のあいだに、僕はいくつもの可能性を見てしまう。評価に影響するのか、しないのか。行かない場合の説明。行った場合の空気。

    「基本全員参加」なら、余計なことを考えなくて済んだのに。

    隣の学生が、ノートに丸をつける。勢いが強くて、紙が少し破れた。ざりっという音が耳をなぞる。その人は気にもせず、次の行を書き始める。その無頓着さが、僕には理解不能だった。

    「私は行けそうです。」

    誰かが言う。

    「自分は微妙かな。」

    別の誰かが言う。

    発言は軽く、順番も整っている。それらはまるで、不器用な子どもが積み上げた積み木のように、僕の中で重なって崩れていく。行く人、行かない人、揺れる人。そのどこにも、僕は収まらない。

    研究の話に移ると、少し楽になる。データの取得方法と結果や、機械情報や公式の数値は、いつも理路整然と流れて僕の思考を洗う。人の言葉は外側の対象に向かい、その間、僕は「発言しない学生」という役割でいられた。

    そんな中、誰かから話を振られたのならば答えられる。でも、自分から切り出す言葉はいつも重く、喉の向こうで動きを止める。

    ふと、最近のことを思い出す。かかってきた電話をとることはできる。ただし、こちらからかける番号の場合は、行動の前に思考に隙を与えてしまう。数字の前で、どうしても指先が虚空をさまようことになる。

    誰かが冗談を言って、笑いが起きた。担当教員も少し笑う。その笑いが、和ませるためなのか、本心なのか。判断しようとしてしまう自分に気づき、首を振った。遅れて、口角を上げるふりをしたが、誰もきっと気づかなかった。

    恨めしい循環構造だった。終了時間が近づくと、またイベントの話が戻ってくる。

    「で、どうする?」

    誰かが、僕のほうを見た。視線は一瞬で、すぐに外れる。でも、その一瞬にこそ、僕は反応してしまう。

    行った方がいい、と思う。同時に、行ったあとの疲れを思う。参加費用の支払いは。参加後のレポートは。そして……行かなかった場合の説明文を僕の頭が、黙って作り始める。結局不参加が僕ひとりだったら。参加者の感想を聞いたときの反応は。

    どれも止められない。足は止まるのに、思考だけが僕を置き去りにする。

    いやだ。

    やめろ。

    「じゃあ……参加します。」
    「……今回は……参加しません。」

    声が、重なって聞こえた。そのどちらも、自分の声によく似ていた。

    頭の中で、絞るように出したもの。軽く、短い言葉で聞こえたもの。感情は依然、何も整理されていない。こぼれたまま、そこにある。

    「了解。」

    誰かが言う。誰かはスマホを見ている。

    わからない。僕は参加すると言ったのか。参加しないと言ったのか。今聞き返さないとだめだ。今聞き返すとおかしな奴だと思われる。

    担当教員は頷いて、資料を閉じる。その手が少し震えているのに気づく。気づかなければよかったと思った。

    ゼミが終わり、皆が立ち上がる。椅子の音が一斉に鳴る。その中で、さっきまでの会話は急に重さを失っていた。部屋のブラインドの隅からは、一条の光が漏れて床に流れていた。

    廊下に出ると、空気が少し暖かい。僕は上着の前を直す。脱ごうとして、やめる。誰もそれを見ていない。それでも、上着を着たまま歩く。

    選ばなかった理由も、選んだ理由も、まだ同時に存在している。自分の気持ちが、かたちにならないまま。

    身体だけが先に進んでいる。意識して、足を速めた。左右交互に無理に動かして、僕はそこに思考を置いていく。

    今もまだ、足元に何かがひっかかっているのを、見ないようにして。


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